開講にあたって:デザインの極・明治神宮


デザインという語は様々に使われ,タイトルにデザインを含む本も多数出版されていますが,そもそもデザインとは何かについて論じたものはほとんど見られません。そこで,無謀にも,デザイン序説なる論をまとめてみようとするわけですが,その糸口として,庭園を取り上げてみたいと思います。中国やイスラムなど,世界に歴史的名園が多数あるにもかかわらず,その作者はほとんど知られていません。,日本にも,浄土の庭園,禅庭など,多数の名園がありますが,作者が知られているのは夢想疎石や小堀遠州など限られます。近代に入っても,ロンドンのチェルシーガーデンや東京の新宿御苑など素晴らしい庭園があり,それらについては,もちろん設計者などは分かっていますが,一般には知られず,建築と比較すると話になりません。重森三玲のように,ほとんど一人に集中しまうか,イザム・ノグチのように,庭園デザイナといわず,ランドスケープアーキテクトというような名にして,建築家に並べようとするかです。

それはさておき,ここでとりあげたいのは,明治神宮の内苑の森で,まさに人工的につくられた原生林という究極のデザインです。我々が日ごろ親しみ,近年では外国人観光客も多数訪れるばかりでなく,ルーツの定かな森として継続的な研究対象になり,世界の学者らからも高く評価されるようになっています。そこで,明治神宮のことを詳しく知りたいと思っていましたところ,明治神宮鎮座百周年に対応するように,NHKの特別番組「明治神宮 不思議の森」が放送されました。放送内容のメインは,動植物はじめ,自然環境に関わる学者の研究と,そこから露わになる森の凄さですが,間に,その設計に関わった3人の天才と,その後の,神宮の森の変遷についての話を挟みながらの放送でしたので,それを見ながら,説明してみたいと思います。3人の天才とは,本多静六とその弟子の本郷高徳,上原敬二で,これだけのものを遺してくれたのに,その名は全く忘れられています。番組のなかで,造園学者の進士五十八先生が,まさにノーベル賞ものだというほどですのに,学問や芸術の世界に比して,人物の扱いがあまりにも軽いといわざるを得ません。立場その他から,その代表は本多静六ですが,これまた凄い人でありました。エピローグで詳しくご紹介するつもりですので,楽しみにしてください。

明治天皇が亡くなられたのは1912年,お墓は京都の桃山につくられましたが,関東にも祈念する施設をつくろうとする機運がおきまして,各地から手が挙げられたのですが,結局,東京に神宮をということで,原宿の,明治政府が彦根藩主井伊家から買い上げてあった南豊島ご料地が選ばれ,1914年には,神宮を内苑とし,明治天皇の葬場殿の儀が行われた青山練兵場跡地に外苑を建設することとセットにして決定しました。市民が親しみやすい一大テーマパークの洋風庭園の外苑とセットにしてつくるという発想も素晴らしく,外苑はその後,スポーツの殿堂になり,1964年の東京オリンピックのメイン会場しなりました。2020年予定であった2度目の東京オリンピックでも,同じ場所に新しい国立競技場が建設されています。前回のオリンピック時には,神宮内苑周りの米軍が支配する土地が返却され,オリンピック村が建設され,終了後は,広大な代々木公園として開放されました。南側には,神宮前にふさわしく,丹下健三の最高傑作で世界遺産候補にもなっている代々木競技場が建設されました。

さて,神宮の森ですが,本多らは,その造林にあたって,「永久に荘厳神聖な林相をつくる」こと,針葉樹と常緑広葉樹を組み合わせて,自然に変化させる,それに即した綿密な計画をたて,着手したら,「人間は手を加えない」こと,そして150年後には,安定した原生林のようになるという,壮大な目的をあげました。目的は大きく困難なものであるほど価値があるとすれば,これ以上のものは無いでしょう。何しろ,西洋では自然は全て神様がつくったものなのですから。当然,政府から,それも,時の総理大臣大隈重信から,「藪みたいなものをつくるな。杉林こそ神様にふさわしい」と一喝の横やりが入りますが,本多は一歩も引かずに説明,最後には,「杉林にしてうまくいかなかったら,総理の責任」とまで言って,認めさせてしまいました。まさに,意志力のかたまり,自分の利益など関係ないからこそできたのでしょう。昨今の,メディア,学者らの不甲斐なさには憐れみすら覚えます。

痩せた土地に強い松など針葉樹を植え,その間に,広葉樹を植えると,成長の速さなど樹々間の競争で,最後は,常緑広葉樹の原生林相にするという計画が,翌年の1915年にスタート,まず問題になった膨大な樹木を集めることに対して,民間募集にかけましたところ,全国から手が上がり,目標の10万本が集まったどころか,植樹作業にも,延べ11万人が参加,工費が大幅に節約されるというように,素晴らしいアイディアもまたデザインの一部,こういったことがあって,今でも,明治神宮が愛されているということでしょう。1920年には明治神宮が鎮座し,3年後の関東大震災の被害も免れ,1926年には,外苑が完成,1931年,外苑の球場で,日米野球が開催されてブームを起こします。その場所が,1943年には学徒出陣の場となり,1945年の東京大空襲では,神宮の社殿も焼け落ち,周囲一帯が焼け野原になるものの,森は無事に残りました。それほど,大きく密度の高いものになっていたのです。自然界では荒地が原生林になるのに数百年かかるというところを,150年の目標にしていたのですが,線路沿いには公害に強い樹を植えるなどの綿密な設計で,実際には,100年後の現在,すでに原生林のようになったという凄さです。

参道の落ち葉も掃除をすると全て森に撒くというように,自然の成長を手助けするのが人間の役割というのに徹する,当初の哲学がそのまま保たれているのも敬服に値しますが,近年の気温上昇は本多らの想定外で,ヒートアイランド現象で地面の乾燥が進み,ダニが急減しているように生態系が壊されつつあるそうで,地球温暖化がそれに拍車をかける可能性もあります。それを解決するのは,未だ見通しすら立ちませんが,全地球的な大デザインが必要になるということです。


最後に,国家的事業だった明治神宮内苑とは比べ物にならないほど小さいですが,民間が独自に守り育て,あたかも自然のような魅力を持った向島百花園のことにも触れておきたいと思います。もともとは,江戸時代の終り,文化元年に,佐原鞠塢という人が,向島の屋敷跡を購入して梅園を開きまして,交流のあった一流文人らがこぞって協力したのが始まりで,やがて古典に名高い草木を植え始めますと,有名な「浮世風呂」などに百花園として紹介され,おりからの本草学ブームもあって,江戸庶民屈指の遊興地になったという訳です。その後,長く佐原家が所有していましたが,日本石油創業者の小倉常吉の手に渡って,その死後,1938年に,東京市に寄付されましたように,維新後も,市民に大事にされまして,庭園はそのまま保全され,1945年の東京大空襲で,ついに壊滅,野球場にしてしまえという声が大きくなるなか,関係者が尽力して元の姿に復旧されて現在に至っている訳ですが,これほど,小さくて柔らかなものが,これほど大事に守られてきたことには驚かざるをえません。



講義内容目次


・・・第Ⅰ講:なぜデザインか(その心)

・・・・・・第1論:先の見えなくなった";未来"を生きる
・・・・・・第2論:未来を創る"意";の復権~科学,芸術とならぶデザイン
・・・・・・第3論:誰もが参加できる";共";の創出~科学,芸術をつなぐデザイン


・・・第Ⅱ講:デザインとは何か(その概念)

・・・・・・第1論:デザイン・デザイナの語を見直す(類例)
・・・・・・第2論:デザイン行為の本質(公理)
・・・・・・第3論:自然と人工の対照(展開)


・・・第Ⅲ講:デザイナになる(その方法)

・・・・・・第1論:拠所となる哲学・プラグマティズム
・・・・・・第2論:基本になる方法・形式知と暗黙知
・・・・・・第3論:皆がデザイナになるための教育(学習)


以下は,第Ⅲ講まで受講してから読んでほしい。


閉講にあたって:デザイナの鑑・本多静六

以上,全体を見渡してみますと,究極的なデザイン行為はガーデニング(庭づくり)ではないかと思えてきます。といいますのは,①まず,誰にでもできる,②身体を使う,③敷地の形状,成長する様々な植物や土壌その他極めて複雑でぶつかりあう条件群,④それらを統合的に解決するため,⑤つくりながら考える,⑥その際,ほとんどの場合,論理ではなく物語であり,⑦持続的に取り組むことが必要であることなどのほか,⑧そもそも自然と人工の間にあり,見方によっては,ハードとソフトの間になります。⑨何よりも大事なのは,ふつうの家の庭では家族それぞれが,いわゆる庭園でも,関係する人たちが自由に出入りでき,公園に至っては,まさに"共"空間なのです。

余談ですが,チェルシーフラワーショーで金賞を11個も受賞した庭園デザイナ石原和幸は,小さい頃,いじめにあって孤独でしたが,近くの里山のものを材料として箱庭をつくるのが好きだったそうで,まさに,マンダラの箱庭療法を自らやって心の平静を得ていたということになりますし,同時に,のちの庭園デザインの能力を育んでいたということになりますね。ついでに,近代日本を代表する庭園デザイナの重森三玲について,最初は東京の美大で画家をめざしましたが,注目されなかったため,日本の美術史に転向しました。京都で様々な分野のものを研究するうち,室戸台風で多くの名園が破壊されますと,その復元をめざすべく国などに掛け合いますがラチが開かなかったものですから,自ら,全国の庭園を回って,実地測量のみならず,その歴史などを蒐集,膨大な「日本庭園史図鑑」を上梓しました。その後,自ら庭園デザイナとなり,自ら"永遠のモダン"という傑作を造り続け,最後は神と一体の境地に達するに至ったのですが,自ら絵を描き,諸美術に触れるという素養の上に,質量ともにけた違いのデータベースをつくったことで,自然に暗黙知が働くようになったとしか考えられません。

このように,ガーデニングは,学問や芸術で,素人から超一流まで,様々なレベルがあるのと同様,色々なレベルのものがありますが,プロローグでお話した明治神宮の森は,人工的に原生林を創り出すという,超一流をも超えた神様に近いもので,それを実現させたチームのリーダー本多静六について,その意志力の強さなどにも若干触れましたが,明治神宮すら人生のほんの一部でしかなく,自らの人生設計も含めて,けた違いのデザイナであると思いますので,以下,ご紹介したいと思います。


本多静六は,人名辞典的に一行で紹介するとすれば,「苦学して"日本林学の父"となり,多大の業績を挙げる一方,堅実な蓄財で"明治の億万長者"となり多大の寄付した」とでもなりましょうか。明治維新の2年前,現在の埼玉県菖蒲町で,代々名主の折原家の六男に生まれるましたが,小学校に通っている10歳の時,父が大借金を残して急逝したため,以後,さまざまな仕事をして家計を助けながら苦学するうち,東京行きを望むようになり,13歳には,家の借金が完済となって許されると,早速,上京して大蔵官僚島村泰の書生となりました。すると,島村に認められて励まされ,17歳の時,1年サバ読んで,東京山林学校に最下位ながら何とか入学,これが,林学に関わるスタートになります。しかし,数学が苦手で,翌年には早くも落第すると,またも,島村が励ましてくれて,猛勉強,たちまちトップとなりましたが,今度は,島村に連れて行かれた骨相学者から「性格に問題あり」指摘を受け,以後,鏡を置いて性格矯正に努めることになります。

帝国大学の始まった1886年には,東京山林学校は駒場農学校と合併して東京農林学校となり,1888年,日比谷練兵場跡地を公園とすることが決定しています。帝国憲法が発布された1889年(23歳)に,望まれて元彰義隊隊長本多晋の娘で官立学校出初の女医詮子と結婚,婿養子となって,ようやく貧乏から脱却し,翌年,東京農林学校が帝国大学に編入されて東京農科大学と改称されるのに対応して,学長の前田正名が奔走,卒業試験前に,ドイツへ自費留学できたのですが,今度は,養父が留学費を預けていた銀行が突然破産してしまいます。すでに貧乏の経験十分であったことから,倹約に努めて,ミュンヘン大学で経済学を学び,1892年(26歳),ドクトル・エコノミーの学位を取得し,西欧を視察して帰国するとともに,東京農科大学助教授になりました。すると翌年,27歳の時,生涯を四段階に分ける「人生計画表」を作成して,"四分の一天引き貯金"と1日1頁の文章執筆を始めます。まさに,本格的な人生設計ですし,それを継続する意志力の問われるものです。おおよそ27歳の頃までは,若気の至りも含めて,できるだけ多くのことに挑戦した方が良いのですが,27歳前後には,自らどのような人生を送るのか,足場固めをする必要があるといえますが,その見本のような人物ですね。

学者としましては,まず,日本鉄道に進言して,日本初の鉄道防雪林の創設に携わりました。以後没するまで関与し続け,全国に整備されてゆきます。日清戦争の終った1895年(29歳)には,提案して全国初となる大学演習林をつくり,これまた,全国各地にのちの東大演習林を拡大してゆきます。翌年には,山林調査のため台湾へ出張し,新高山初の登頂に成功して,一躍時の人になりました。33歳の時,「森林植物帯論」で日本初の林学博士の学位を取得し,翌年には,東京帝国大学農科大学の教授になりました。その翌年,辰野金吾からの相談を受け,東京市日比谷公園設計調査委員となり,1903年(37歳)の時,日本初の洋風の日比谷公園が完成します。この間,多摩川上流の水源林荒廃を見て,御陵林を東京府に譲渡させて,涵養体制整備にも取組みました。日露戦争が終った1905年の翌年,40歳になると,"四分の一天引き貯金"の成果で利子が基本給与を上回り始めました。厄年の41歳には,腸チフスに罹って入院しましたが,その機会に,文章執筆は1日3頁になり,以後,生涯続けます。

1912(46歳)の時に,明治天皇が崩御,原宿の,明治政府が彦根藩主井伊家から買い上げてあった南豊島ご料地が選ばれ,1914年には,神宮を内苑とし,明治天皇の葬場殿の儀が行われた青山練兵場跡地に外苑を建設することとセットにして決定しました。この間,多摩川水源林管理が東京市移管になると,会計処理で多額を弁済してしまう一方,早くから東南アジアの将来性を指摘していて,翌年には,内閣の命で,マレー半島・ジャワ・スマトラ・ボルネオ等へ出張しています。そして,翌年には,内閣造営局参与となって,弟子の本郷高徳,上原敬二の二人とともに,明治神宮造園を指導。翌年には工事がスタート,まず問題になった膨大な樹木を集めることに対して,民間募集にかけましたところ,全国から手が上がり,目標の10万本が集まったどころか,植樹作業にも,延べ11万人が参加,工費が大幅に節約されるという,素晴らしいアイディアも出しています。この間,全国各地の近代公園を次々手がけ,東大のイチョウ並木も実現。1918年(52歳)には,日本庭園協会理事長,さらに,その翌年,帝国森林会の理事となり同副会長となり,1920年(54歳)には明治神宮が鎮座しました。その翌年,妻詮子が卒中で急逝しますが,木曾の"寝覚の床"がダム底に沈むのを防ぎ,1923年,関東大震災では明治神宮は無事で,宮内省の神宮神域保護調査委員になりました。

翌年には,東京市の恩賜公園の常設議員,その2年後,外苑が完成した1926年(60歳)には,都市美協会の副会頭,帝国森林会の会長になりますが,翌年には,自ら提言して実現の定年制で東京帝国大学教授を退官するとともに,財産の殆どを匿名で寄付したのです。翌年以降,日本庭園協会会長となり,熊本阿蘇の篤志家から国立公園にしたいと相談されますと,実現すべく奔走,細川護立を戴く国立公園協会の副会長になりました。その間,渋谷町町議会議員に当選して,一期四年務めています。内閣国立公園調査会の委員になり,埼玉県秩父郡大滝村に所有の山林を県へ寄贈したりするうち,満州事変の起きた1931年(65歳)に,国立公園法が施行され,内閣国立公園委員会の委員ということになりました。この年,外苑の球場で,日米野球が開催されてブームを起こします。そして,郷里の埼玉県人会副会長(会長は渋沢栄一),埼玉学生誘掖会及び埼玉学友会の会頭にも就任します。それに応じて,翌年,埼玉県が本多静六博士育英基金条例を制定しました。翌年から,日本庭園学会会長にもなり,かたわら,諸県からの調査の依頼に応じて,委員や顧問を務め,68歳の時,満州国の森林調査に出張し,風景協会副会長,内閣神宮関係調査委員になりますが,1937年に,日中戦争が始まると一気に戦時体制になり,日米開戦の1941年(75歳)に,貯蓄増強・生産合理化研究会委員,翌年には,戦時貯蓄中央協議会の委員や東インド振興会顧問になったりしますが,その翌年には,戦況悪化で,静岡県伊東の歓光荘に転居し,{キング}など諸雑誌の人生相談の欄への回答依頼などを受けたりするうち,1945年(79歳),東京大空襲では,神宮の社殿も焼け落ち,周囲一帯が焼け野原になるものの,森は無事に残りました。それほど,大きく密度の高いものになっていたのです。

そして,終戦になりました。手元に残していた財産は紙屑になってしまいますが,楽天的生き方は揺るぎません。その上で,84歳になると,偽善が嫌になったと「私の財産告白」を出版して真実を語り,翌年には,50年前に作成した「人生計画表」を全面改訂,その翌年の86歳に,「幸福論」を発表して,静岡県伊東市の国立療養所で亡くなりました。ハジメもケジメもつけた大人生だったと思います。


開講にあたっての最後に触れました向島百花園の創設者佐原鞠塢につきまして紹介しておきますと,仙台の農家の子でしたが,江戸に出て芝居小屋に奉公して金を貯め,日本橋に骨董屋を開きますと,酒井抱一,加藤千蔭,村田春海,太田南畝,亀田鵬斎,大窪詩仏という,いずれも人名事典から外れることのないような一流文化人から愛顧を受けましたが,文化元年,42歳の時,骨董会で不正の嫌疑がかけられまして,無罪放免となりますも,店を続けがたくなりましたため,隠棲し出家,向島の屋敷跡を購入して,梅園を開業,作庭をも趣味とする一流文人たちと共にウメの木や展示のための草花を採集,抱一設計による数寄屋も建てられました。梅干しが名物になって行きますと,文人たちと,墨堤に桜を,園には古典に名高い草木を植え始め,式亭三馬の「浮世風呂」に百花園と紹介されて,江戸の人々の遊興地になって行き,小銭の寄付で庭園整備費も稼げて,さらに,諸書に紹介されるようになりまして,ついに,十一代将軍家斉御成りとなりましたが,翌年,69歳で没しました。まさに,無名のデザイナであったと言えましょう。




特別講義:
デザインからみた
ユングの転生