引田康英の九品塾・選択講座
歴史人物にまなぶ 年齢適活三講
第Ⅲ講:人生を企てる
第1論:高齢化への対応
・・・第1話:第三の人生を拓いた人物
・・・第2話:82歳以上まで活動した長寿者
・・・第3話:退場後,81歳を超えて死去するまで,27年を超える年月を過ごした人物
第2論:若い人の人生設計のために
・・・第1話:企業など組織に属して出世,転身し,歴史に残り,かつ,高齢で没した人物
・・・第2話:社会的地位が確立するとされる36歳までに登場し,81歳過ぎまで活躍した人物
・・・第3話:取り組みを続けるものの,登場が遅くになってしまった人物
第3論:さまざまな壁の乗越え方
・・・第1話:変事を乗り越える
・・・第2話:ハンディを乗越える
・・・第3話:最後に,活動パターンが特殊,あるいは,参考にしにくいため,取り上げないできた人物
第1論:高齢化への対応
第1話:第三の人生を拓いた人物
活動パターンの1:前山後山型のうち,外的事件等の直接的な影響でなく,時代の変化等への対処等も含めて,自らの意志で転換した人物。前山後山型とは,何等かの変事によって,活動が,前山から後山へ移るものを示すが,さらに,前山に対し,後山の状態によって,明らかに「飛躍」した場合,少なくとも,前山と同程度以上に「蘇生」した場合,それとは逆に,前山よりも落ちる「残照」の場合,そして,明らかに別の分野に「転換」した場合の四つに分けて,それぞれの状況を一言で記入してある。いわゆる第三の人生としては,最後の「転換」した場合が対応するとみなし,その人物をピックアップしてみたい。
その前に,時代ごとに,どのような違いがあるかを,下表(赤字表示の%は,それぞれの時代,つまり縦方向全体の人数に対する比率)で概観しておくと,トップページに示したリストの総数3.635人に対し,古代が223人で6.1%,中世251人で6.9%,近世が683人で18.8%,近代が2,458人で68.2%と,近代の人物が圧倒的に多いのは,当然であるが,全体で733人と20.2%と5分の1ほどいる前山後山型に限ってみると,近代が8割近くになり,より,近代の多さが際立つ。おそらく,前山と後山を分ける変事が,時代を遡るほど,困難であることによると見られるが,どの時代においても,活動パターンの4:台地型と同程度の人数になっている。
補足しておくと,古代において,「飛躍」が際立つのは,歴史に名をとどめる人物が,何等かの事件等によって,地位等が飛躍的に上がることによるし,中世において,「蘇生」が際立つのは,幕府や朝廷のトップの交代等によって,失脚し,復活するような場合の多いことを示している。近世において,「残照」が多いのは,おそらく時代が安定していた,変化も少なかったことと関係し,近代に「蘇生」が多いのは,維新と敗戦という際立った事件があったことで,当然といえよう。
古代 | 中世 | 近世 | 近代 | 全体 | |
---|---|---|---|---|---|
飛躍 | 9(50.0%) | 7(22.6%) | 23(21.7%) | 117(20.2%) | 156(21.3%) |
蘇生 | 6(33.3%) | 14(45.2%) | 22(20.8%) | 200(34.6%) | 242(33.0%) |
残照 | 3(16.7%) | 5(16.1%) | 35(33.0%) | 99(17.1%) | 142(19.4%) |
転換 | 5(16.1%) | 26(24.5%) | 162(28.0%) | 193(26.3%) | |
全体 | 18(2.5%) | 31(4.2%) | 106(14.5%) | 578(78.9%) | 733(100%) |
1:前山後山型のうち,外的事件影響でなく,自らの意志で転換した人物
「転換」においても,その多くは,外的圧力によるもので,やむを得ず転換している。そもそも,古代には転換した人物がいないが,時代の激変を受け,かつ,戦の時代に入った中世になると,数少ないなか,摂関藤原忠通の子で,天台僧となった慈円が,世俗化した延暦寺に飽き足らず隠退したいと思っていたところ,源氏の一斉蜂起の年,力を握っていた同母兄の九条兼実に説得されて思いとどまり,鎌倉幕府が始まった1192年,37歳には,源頼朝と関白になった兼実の推挙で,天台座主になるに至るが,兼実の浮沈で定まらず,頼朝に次いで,兼実も死去すると,公家社会の再興を自覚,九条家の存在を,歴史上の流れで裏付けるべく,日本人初の体系的な歴史書となる「愚管抄」の執筆に専念,書き上げた直後に,承久の乱となって瓦解,なお,手を加え続け,失意のまま没したのに続いて,下鴨神社の禰宜の子に生まれた鴨長明が,恵まれた幼少期を過ごすも,18歳の時,父が死去して孤児となり,自宅に籠居するようになる一方,和歌の才能を発揮,後鳥羽上皇が「新古今和歌集」撰進のため再興した和歌所の寄人に抜擢されるに至るが,執権政治の始まる1203年,48歳に,歌壇から姿を消し,上皇が,欠員の出た下鴨神社末社の禰宜に任じようとするも,下鴨神社惣官の反対でダメになると,失踪,出家,遁世し,洛南に草庵を構え,数寄を愛し,名作「方丈記」を著し,出家遁世した人たちの説話集「発心集」を完成させて没した,まさに,自らの意志による「転換」であったとはいえ,慈円と同様,時代の激変における敗残者であった感は免れない。
そして,中世の終り,足利義満の子義持が,将軍継嗣定めず没したため,将軍義教を籤引きで選ばれてまもなく,26歳で連歌僧として登場した心敬が,その義教が守護赤松満裕に暗殺される嘉吉の乱がおこり,さらに,故郷紀伊国と京都で続く畠山家の家督争いで近親者のほとんどを失うという末期的状況のなか,のちに,連歌界最高峰となる飯尾宗祇が入門するほどになり,55歳の時,大飢饉で多くの難民が京都に流れ込むのをみて覚悟,紀伊国の神社に参篭し,仏道と歌道融合の理論的到達点となる連歌論書「ささめごと」を書き上げ,宗匠役になったが,やがて,応仁の乱が勃発,相模の国まで下って終息を待つも叶わず客死,連歌の発展に大きく貢献した心敬は,まさに,次の時代を開く役割をした訳で,近代の末期的状況とも言える現代との比較においても意義ある存在であったといえよう。
近世においては,前表に示したように,人数はかなり少ないとはいえ,「転換」の比率は,近代とほぼ同じになるように,さまざまな転換例が出てくる。その代表格は,田能村竹田は,豊後国竹田で,代々岡藩医の子に生まれ,嫡子として家業を継ぐも,21歳の時,藩校に出仕,医業を廃して学問専攻を命じられ,後に,頭取になるとともに,「豊後国誌」を編纂,完成させて幕府にも納本する一方,青年時代より親しんできた画業を本格化,関西の文人画を代表する存在となり,一流の文人らとも交流するうち,国誌編纂で領民の実態を知っていたことから,城下で,一揆が勃発するや,革新的な建言書を藩に提出,翌年,再度の一揆に,2度目の建言書を提出するも,いずれも受け入れられず,36歳の時,ついに,辞職し,以後,墨客の徒として自由の境涯を歩み,50歳前後には,集中的に傑作を描き,58歳の時,藩主に「山中人饒舌」を献上して,病没した。大塩平八郎の乱の2年前であった。
また,将軍家光が,鎖国化を進めるなか,丹波国の郡代官の長女に生まれた田捨女は,まもなく母と死別するが,5歳の時,'雪の朝二の字二の字の下駄の跡'と詠んで世人を驚かせ,家光が没した1651年,18歳の時,父が迎えていた後妻の連れ子李成を婿養子として家督を継ぎ,和歌俳諧に優れる夫とともに北村季吟らに学んで創作,33歳の時に刊行された重徳編「俳諧独吟集」に歌仙一巻が収録されるほどであったが,41歳の時,夫が死去すると,その七回忌に剃髪,高僧盤珪のもとに参禅,53歳には帰依,師の住する竜門寺の傍らに庵を創建して庵主になると,多くの尼に慕われ,65歳で没した。
さらに,吉宗が将軍になってまもなく,武蔵国で日蓮のために池上本門寺を建立した人物を祖とし,曾祖父が新田開発して土地一切を寄進して名主となった豪農に生まれ,11歳の時,父が死去して,当主になった池上太郎左衛門(幸豊)は,儒者成島道筑に学ぶとともに,才能を見込まれて農作の法を伝授され,28歳の時,自費で干拓することを願い出るも不許可,1751年,吉宗死去後,ようやく試験的な開発を認められ,苦難の後,新田開発に成功すると,払い下げを受けたばかりか,他地域の新田開発を命じられて取組むうち,江戸の医師が製糖法完成したのを知って関心を持ち,新田の功で,一代限りながら,苗字帯刀を認められると,自ら製糖して地方役所に献上,諸国を巡回して製糖法を伝えることを願い出て許可され,池上新田のメンテナンス努めるうち,56歳の時,ついに,新田世話役を辞任して開発事業一切から手を引き,大がかりな諸国巡回伝法を開始,その後,三たび実施するとともに,2,000斤以上の砂糖を製造,氷砂糖の試造にも成功したところで,80歳で没している。
その他,本能寺の変後の時勢に対処し,徳川幕府の形成に貢献し,利休七哲の一人にもなった細川忠興,神道・儒教から当時の仏教を徹底批判,正法律運動から隠退し,梵学研究に転換して偉大な足跡を遺した慈雲尊者,浮世絵師から御用絵師へ華麗な転身し,"北斎嫌いの蕙斎好き"といわれたほどの人気のあった鍬形蕙斎,退任後家塾で教育に専念して,後期水戸学の祖になった藤田幽谷(東湖の父),隠居し,諸藩の招請に出張講義,俊秀を育て,<蛮社の獄>では,渡辺崋山赦免運動に尽力した松崎慊堂,隠退し研究専念,近年まで使用された「草木図説」を著し,日本で初めて顕微鏡を本格的に利用した飯沼慾斎,大名貸しの回収のため,新郡代着任に,府内藩のコンサルタントとなり,長期に地域の開拓に貢献した広瀬久兵衛,独学でさまざまな教養を身につけ,隠居許可後,次々著作して実践,近郊の人々から敬愛された菅原源八,江戸詩壇の中心的な存在になった後,勤王の志士たちとに接触し,国事に奔走した梁川星巌らが目に付く。
近代においての代表格は,通産官僚で,在職中に辣腕も,天下りせずに新たな活動し,城山三郎「官僚たちの夏」のモデルになった佐橋滋で,日中戦争の始まった1937年,24歳で,東大法学部を卒業して商工省に入るも,すぐに従軍,一旦復員して,軍需省軍需官となり,再度応召して敗戦となるや,全商工労組初代委員長となり,総務局労働課長以降,諸課長を転々として,41歳に,課長ではトップの大臣官房秘書課長になると,異色の人事で佐橋派を形成,特許庁長官赴任で次官レース敗北と見られるも,1964年,池田首相退陣によって,次官となり,佐藤内閣発足後,国際競争力強化の法案を三度提出,不成立に終わるも,通産大臣三木武夫を差し置いて,佐橋大臣と揶揄されるほどであったが,2年で退官すると,自ら研究所を開いて所長になり,6年後の59歳,時代を先取りするように,財団法人余暇開発センターを設立,初代理事長になった。城山の本は,この3年後に出版され,佐橋は,78歳で退任し,80歳で没している。
以下,注目すべき人物を,年代順に列挙するので,興味を惹かれた人物については,一枚年譜で確認して貰いたい。権力に抗する代言人から同志社総長になるも,突然全てを捨て渡米,テキサスのライス・キングになった西原清東,近代的な百貨店としての{三越}の誕生に貢献も,引退し,近代茶道史に特筆される存在になった高橋箒庵,日本の監獄学の草分けで権威になるも受け入れられず,退官して,民間社会事業を推進した小河滋次郎,政界黒幕として活躍するも,義太夫講釈に転じ,名著「浄瑠璃素人講釈」を遺した杉山茂丸(其日庵),反骨の新聞・雑誌を次々と創刊し<大正デモクラシー>を先駆するも廃業し,明治文化史研究に専念した宮武外骨,柔道の世界普及のため無敵の異種格闘技興行後,アマゾンの密林開拓し日本人入植を実現した前田光世(コンデ=コマ),大正三美人としてもてはやされるも,それまでの生活嫌気,日本舞踊家になり独自の作品を創案発表した林きむ子,<敗戦>で町医となるも,辞めて評論家になり,育児書で一世を風靡し,平和運動にも尽力した松田道雄,服飾デザイナーとして活躍も,教育者に転換,{桑沢デザイン研究所}を創立し,東京造形大学に発展させた桑沢洋子,"ブギの女王"で一世を風靡も,歌手廃業して,女優になった笠置シヅ子,大量生産・大量消費社会に疑問を投げかけ,独自のものづくりのデザインを開拓した秋岡芳夫らである。
(参考)現代のように,安定して長寿を迎えることが多い時代には,「Ⅱ:年齢を踏まえる」の「第1論:ライフステージモデル」に従い,54歳を,一つの区切りとして捉えることができる。私自身,半ば計画的に引退したのは,1997年,54歳の時であった。その時は,周囲の人たちから,半ば,変人のように見られたが,6年後,ちくま新書の一冊として,タイトルがそのものズバリの,布施克彦「54歳引退論~混沌の長寿時代を生き抜くために」(2003年)が出版されたが,やはり,時代を先駆けすぎていたためか,あっというまに消えてしまった。ところが,15年後,櫻井秀勲「老後の運命は54歳で決まる! ~第二の人生で成功をつかむ人の法則~」(2018年)が出ると,大きな話題になり,その5年後には,女性によるきんの「54歳おひとりさま。古い団地で見つけた私らしい暮らし」(2023年)という本まで出版された。3冊それぞれに全く異なる理由であるものの,10進法の55歳でなく,9進法?の54歳になっているところが面白く。また,本講義で述べていることのも一致するので,紹介しておく。
2:向山型(人生半ば過ぎて登場)のうち,自らの意志で,それまでの仕事等と関わりない新世界を開いた人物
向山型は,全体で216人と総数3,635人の6%弱を占めるが,当然のことながら,前山後山型の3割程度と少ないが,それでも,登攀型や,山脈型よりは多いこと,つまり,人生の半ば過ぎに,新たに始めたことでも,歴史に残るような人物は,誰もが,そのことを知っている伊能忠敬はその代表のような人物のほかにも沢山いたことを知っておく必要がある。時代別に概観しておくと,古代は7人で向山型全体の3.2%。中世は13人で6.0%,近世は47人で21.7%,近代は149人で69.0%となり,全体の人数の比率に対しては,古代が少なく,近世に多いことが指摘できる。古代に少ないのは,歴史人物として登場するような人物の分野型が限られていることによるが,近世に多いのは,戦が無くなって,武士を辞め,ほかの分野型に取組むようになって,登場した人物が多いほか,いわゆる泰平の世の中だったことから,さまざま形で登場する機会があったことも示しており,中世では,源氏の一斉蜂起に呼応して,かなり,齢をとった人物が立ち上がったり,南北朝分裂などの時代の激変で登場することになった人物がいたということである。
古代においては,鑑真がまさに向山型の典型になるが,あまりにも特殊な事例なので避け,有名な源信の「往生要集」に先立って,日本初の往生伝「日本往生極楽記」を著し,浄土思想を普及させた慶滋保胤を紹介しておきたい。慶滋保胤は,陰陽師賀茂氏の子に生まれ,菅原文時に入門し秀才の誉れは高かく,学生身分のまま,内御書所に出仕して官位の栄進を望むも,藤原北家の権力独占で叶わず,また,陰陽道を嫌って仏道に関心を抱いていたこともあって,学生や僧侶を集めて,勧学会を始めたところ,969年,36歳の時,最後の砦だった源高明まで,藤原氏に失脚させられた(安和の変)のに衝撃を受け,その3年後には,尊敬していた空也が死去するなどして,45歳頃から,仏教に関する著述を盛んにするようになり,51歳の時,「日本往生極楽記」の初稿本を出すと,まもなく,源信が「往生要集」を著し,そのなかで保胤の著を実証の書として勧めており,53歳に完成させると,出家し,源信の発起した{二十五三昧会}に走り,「八ヵ条起請文」を作成,藤原道長をして"授戒の師"と言わしめて,69歳で没した。なお,「日本往生極楽記」に先立って著した,荒廃した京の有様や火災・盗賊などに怯える人心を描写した「池亭記」は,鴨長明の「方丈記」に強く影響を与えたという。
中世では,"古今伝授の祖"と言われる東常縁が,足利義満の時代,1405年に,桓武平氏上総千葉氏の流れえを汲む武家美濃東氏7代目に生れ,歴史に登場したのは,43歳の時,京で「定家仮名遣」を書写したのが初見で,兄の歌友正徹とも交流するが,革新的和歌について行けず,「古今集」派の尭孝に入門する一方,正徹に従い。将軍足利義政に謁見し,義尚に歌を進上,その後,さまざまな歌会への出席も続くうち,1467年,62歳の時,応仁の乱が勃発,西軍と見なされて,東氏の居城が,東軍の斎藤妙椿に攻撃されて落城した際,その悲報を聞いて詠んだ歌に妙椿が感動,居城を返還されたばかりか,歌一首を贈られ,焼失を免れた「古今集」をもとに,66歳の時,遣わされていた伊豆三島の陣中に来訪した飯尾宗祇に古今伝授を始め,勝利した後には,上総の大坪基清の懇望に応じて講義,2年後には,宗祇への伝授が完了,基清にも古今相伝一流の説を授け,75歳には,将軍義尚の御教書をもって,土御門上皇に古今伝授,その勅命で,関白以下にも伝授し,まもなく没した。まさに,文が武を超えた出来事であったといえよう。
前述したように,近世になると,多数登場し,その代表は,何と言っても,商人・名主として実績後,50過ぎに天文・測量を学び,初めて詳細な日本地図を作成するに至った伊能忠敬で,その伝記は,よく知られているので省略するが,伊能家の先輩とも言える楫取魚彦が,やはり,名主を隠居して国学に専念,名著「古言梯」を著し,その後の歴史的仮名遣い研究に貢献したように,ある意味,生き方の伝統であったことも指摘しておきたい。
その他,時代順に列挙すると,秀吉の陣所から友人の遺体を奪うほど気骨ある武士が,60になって画業始め,ついに宮中御用になった海北友松,大坂の陣が終わるや,武士から禅僧に転身,仏教復興運動に尽くし,仏教説話が仮名草子の先駆した鈴木正三,佐賀の鍋島氏に仕え,秀吉,家康の緒戦に,もっぱら築城や検地さらには農地開発などに携わっていたが,大坂の陣も終わって,泰平の世になると,治水事業家として才能を発揮,筑後川堤防築造で大事業を実現したのを始め,業績多数で"治水の神様"になった成富兵庫,家康配下で軍令に背き罰せられ出家,のち詩仙堂を建てて詩文に遊び,江戸漢詩人の祖となった石川丈山など,戦の時代が終わったことに対応して登場した人物を皮切りに,甘藷知って,近世琉球の諸産業振興に尽力した儀間真常,晩年になって,俳諧全盛を導く革命を起こし,'貞徳無くして芭蕉無し'といわれる松永貞徳,出家して住職になった後,仮名草子を書き始め,質量ともに最大の作家となった浅井了意,管鍼術で治療範囲を飛躍させ,広めるべく開塾し,視覚障害者教育のパイオニアになった杉山和一(検校),検地で生じた小農のためにと,最も早く,かつ優れた「会津農書」を著した佐瀬与次右衛門,致仕して,綱吉政治批判の「御当代記」を著し,「梨本集」で堂上歌学の因習攻撃し和歌革新した戸田茂睡,家業離れ,鎖国下で合理的認識を先駆,日本で初めて世界地誌を著した西川如見,世の中への遺言をと,談話を藩士田代陣基が筆記して「葉隠」が成立,後世大きな影響を与えた山本常朝,残りの人生に,すべてからの自由を求め,茶を売って放浪し,京の若者に多大の影響を与えた売茶翁(高遊外),御三家筆頭尾張藩の重職をそつなく務め,退隠して,悠々自適の後半生を全うした"人生の達人"横井也有,本質見破り,江戸中期に封建的な身分制度を根本的に否定,驚くべき先進的な思想を示した安藤昌益,致仕し,自ら目指す詩風で新風をもたらし,美濃国郡上の詩壇を全国的なものに育成した江村北海,緻密な紹介解説に画家の挿絵溢れる「都名所図会」が大ヒットして,名所図会のジャンルの嚆矢になった秋里籬島,蘭学始めて新世界が開け,「解体新書」訳出の中心的役割ながら名前掲載固辞した前野良沢,趣味に溺れて罷免された後,自由人として,天真爛漫奔放な傑作を次々と描いた浦上玉堂,賭博に溺れるも改心して,生真面目な学者となり,幕府に重用される後半生となった古川古松軒,開塾した中沢道二の話聞いて,信州心学の開祖となり,"加助菩薩"と呼ばれて敬慕された植松自謙,啓示受け,幕末に際立つ開明的「独考」を著し,厳しい批判受け絶交された滝沢馬琴により名が遺った只野真葛,60歳前後に,全国の諸山を巡る修行を兼ねて各地を訪れ,「日本九峰修業日記」を遺した野田泉光院,隠居して独学で,村起こしのための農業技術史論「百姓稼穡元」はじめ,多くの著作を遺した石田春律,同僚と意見が合わず雌伏,40過ぎに登場して,藩の殖産興業に驚くべき貢献をした河合寸翁,ロシアに拿捕され,交換釈放途中,種痘法を知ってマスター,日本初の種痘実施,以後度々行った中川五郎治,病気で致仕後学問に専念,高齢になって名随筆「甲子夜話」を書き続けた松浦静山,いよいよ覚悟,蔵書を拠出し私財を投じて,日本初で将来の運営をも図る公開図書館を開設した青柳文蔵,致仕隠居して著作,精緻周到な学風で,同門平田篤胤と対照的だった伴信友,飢饉へ対処すべく諸マニュアルを執筆・頒布,後半生を全て救済活動に賭けた熊谷蓮心と,内容も多様,レベルも高い,さまざまな生き方があった。
近代になると,人数も多いので,特に際立つ人物を取り上げてみると,陶器商の子ながら,家督弟に譲り,国学を始めて,考証的な江戸派国学を代表するに至った黒川春村,医業務めるうち,天保の改革で利根川流域開発危機,自ら調査し類例の無い地誌「利根川図志」を完成した赤松宗旦,天才少女と言われるも無能な夫と結婚,精神危機に開眼し,わが国最初の感化事業創始した池上雪枝,50過ぎて,{博文館}設立するや次々世間を驚かし,{太陽}創刊,{当用日記}発行など,挑戦し続けた大橋佐平,議会に失望し,取り残された人々の視点から調査,不朽の名著「南嶋探験」を遺した笹森儀助,会社辞め,北海道で,馬鈴薯生産の基礎をつくり,"男爵芋"に名を遺した川田龍吉,人生半ばに突然,政界・財界から一切手を引いて,後半生を能楽の振興に捧げた池内信嘉,遅れて数学者になり,退職後(60歳),東大の国史学科に入学,社会経済史の基礎を築く大著を遺した沢田吾一,明治天皇の詔に触発され,企業出世捨て,医療の社会化の実践を先駆し,医業国営論を提唱した鈴木梅四郎,陸軍軍人であったが,予備役編入とともに,後半生を埼玉県の史伝研究に賭けた渡辺金造(刀水),本当の自由人となった70半以降の最晩年に独自の画境で大評判になるも,勲章は全て辞退した熊谷守一,戦時下,長く務めた教員を辞め,自伝的教養小説「次郎物語」を発表し続け,青少年に大きな影響を及ぼした下村湖人,家族に,やりたいことやる宣言して,民俗学者になり,晩年には,障害者を守る全国連絡協議会結成した矢島せい子というように,一行コメントだけでも,かなり痛快な人物たちである。
3:以上2つの型で,思わぬ外的条件に対応した人物
中世の幕を開ける一人になった源頼政は,清和源氏の本宗摂津源氏の出であるが,院政時代という時代状況で,出世の道は無く,長く歴史に登場しないままでいたが,兵庫頭になった翌年の1156年,52歳の時に,保元の乱が起きると,200騎を率いて後白河天皇方につき,勝利して華々しく登場,続く,平治の乱では,始め,源義朝方につくも変心して,平家方につき,源氏で唯一人,平家政権下で生き延び,59歳には,内昇殿を許され,72歳には,清盛の奏請で,念願の三位となったが,まもなく出家,1180年に,以仁王を奉じて挙兵,平氏方は,以仁王の射手に予定していたほどで,完全に出し抜かれ,源氏の一斉蜂起とその勝利につなげたが,宇治で敗死,歴史の奇跡を絵に描いたような人物であった。その他,九州探題解任後も長寿を保ち,冷泉歌学に多大の貢献した今川了俊,関白まで務めたが,応仁の乱による生活苦に,公武合体文化醸成の役割を果たした一条兼良,武将らの覇権争いに翻弄され,信長入京で関白辞任後,諸国を流浪遍歴,京文化の地方伝播に貢献した近衛前久らを挙げておく。
近世の文化人を代表する一人大田南畝(蜀山人)は,前将軍吉宗が没する少し前に,御徒の子に生まれ,家督を継いでまもなくの18歳の時,戯れに作った狂詩が平賀源内に推賞されて,「寝惚先生文集」を出版,一躍文名が高まり,20歳には,四方赤良と号して,狂歌を始め,26歳に「甲駅新話」を書いて,洒落本作者としても活躍,30歳過ぎには,天明文芸界の中心的存在になったばかりか,34歳には,大ブームとなった狂歌においても,四方連が他を圧倒,江戸文芸全般の盟主のようになった直後,田沼意次が失脚し,寛政の改革が始まると,文筆を完全に捨てて,46歳の時,人材登用試験に首席で合格,以後,優秀な幕吏として活動,52歳に,大坂銅座詰になると,(銅の異名)蜀山と号し,かつての名声に押され,本格的に狂歌を再開,並行して,膨大な量の紀行,評論その他で,文芸界を超えて,歌舞伎,浮世絵等江戸文化全体に大きな影響を与えながら,古希を過ぎるまで,勘定所役人として勤務し,シーボルトが来日した年,74歳で没した,まさに,なんでもできてしまう人物であった。
その他,平和な時代に入って没落したことに奮起し,自家経歴武功を記した「三河物語」を著した大久保彦左衛門,徳川幕府の形成に貢献して致仕後,茶道に専念して利休七哲の名誉を得た細川忠興,幽閉中に,中国の刑法を集成し,のちに世界的評価を受ける「無刑録」を著した蘆東山,一揆で大庄屋から没落,30年放浪の後,江戸時代で最も優れた地方書「地方凡例録」を著した大石久敬,賭博に溺れるも改心して,生真面目な学者となり,幕府に重用される後半生となった古川古松軒,<寛政の改革>閉門を契機に,書の"千蔭流"創始,国学研究も深めて江戸派重鎮になった加藤千蔭,大垣藩主の侍医ながら,妻を治療できず,46歳にして江戸に遊学,関西蘭方医の先駆になった江馬蘭斎,新技術導入に努めて藩に採用され,家業を盛り返すと,日本初の民営の窮民救済基金{感恩講}を構築した那波祐生,夫と離縁後に句作をはじめ,宗匠にまでなった禾月,幕末の実態を知ることのできる「日記」を遺し,当時の女性の知的水準の高さを示す井関隆子,藩家老務めるうち,隠居命で,研究に専念し,多くの業績を遺した鷹見泉石,幕末の江戸立退き命で初入部の際,道中のユニークな日記で名を遺すことになった藩主正室(島津)随真院らを挙げておく。
近世で,知っておいて欲しい人物として,まず,挙げたい佐野常民は,佐賀藩士の子で,藩医の養子となって,外科修業するうち,若手育成めざす藩主の命で,京坂に遊学,緒方洪庵ら一流の師について開花,伊東玄朴には,大病を助けてもらい,自らが田中久重を藩に招いて設置された精錬方主任になると,ペリー来航翌年1854年,33歳に,日本初の蒸気機関車の模型製作を監督して成功し,長崎伝習所に,48人の学生を統率して留学,その後も,日本初の蒸気船を完成させるなど活躍するうち,パリ万博に,幕府の呼びかけに唯一応じた佐賀藩の派遣団筆頭として渡仏,赤十字館を見て感銘を受け,閉会後も出品したものの売却や視察に努めるうち,明治維新となって,急遽帰国,工部省に出仕,ウィーン万博の責任者など務めるうち,西南戦争が起きると,官賊の別なく傷病者を救済する病院の創設を,同様の行動を起こした大給恒と嘆願,敵兵をも救済することが問題となって保留となるも,征討総督有栖川宮に訴えて許可を得,56歳の時,{博愛社}を創立,新聞記事を見て,寄付を申し出た女性に始まり,宮内省からも下賜金,大隈重信の後を継いで,大蔵卿になるも,明治14年の政変で,大隈が罷免されたのに従い辞任,その後,日本が万国赤十字条約に加盟して,{博愛社}から変わった{日本赤十字社}の発展,とくに,看護婦教育に努め,濃尾大地震やトルコ軍艦沈没,日清戦争などで,看護婦の活躍が知られて,一般に広くに認知されるようになるなか,80歳に,幕末,維新を全力で走った人生を終えた。
誰でも知っている高橋是清であるが,意外にもその登場は遅く,明治維新直後の青年時代は放蕩,職については辞めるといった按配であったが,明治14年の政変の起きた1881年,27歳でようやく,農商務省に定着し,特許局長まで進むが,またも,ペルーの銀山経営の話に惹かれて,退官し渡航するも,廃坑と分かって帰国,38歳の時,日銀総裁川田小一郎に事務主任として拾われると,ようやく才能が発揮され,45歳には,副総裁になり,1904年,50歳の時,日露戦争が始まると,戦時公債募集のため渡欧して成功,一気に評価され,57歳,ついに日銀総裁となって以降は,よく知られているとおりである。
その他,例によって,時代順に示せば,庄屋だったが,功績で抜擢されると,海難事故を防ごうと灯台建設を決意,動乱乗り越え実現させた岩松助左衛門,横浜開港を機に西欧建築の様式を吸収,傑作を遺して,{清水建設}の祖となった清水喜助(2代),維新直後の文明開化に,"あんパン"を発明,大ヒットで宮内省御用達,{木村屋}の祖になった木村安兵衛,幕末にいち早く西洋画を取り入れ,息子義松はじめ,明治初期の洋画家多数を育成した五姓田芳柳,維新直後の外交で日本の存在示すも,明治14年の政変で下野,書家となり天才的な書を遺した副島種臣(蒼海),維新政府の優れた文部官僚だったが,病で閑職に転じると,洋学一辺倒の中,日本文化確立に努めた西村茂樹,維新で銃術指南役から帰農するや,稲作改良技術考案,私塾開き,全国巡回して普及させた林遠里,新聞の力を認識させるも,御用記事で凋落すると,歌舞伎作者に転向して成功した福地源一郎(桜痴),宮中に一大勢力確立も疑獄事件で引退すると,志士の遺品蒐集し,多摩聖蹟記念館を実現させた田中光顕,三井の娘に生まれ,維新に際し婚家のために立ち上り,夫が死去すると,女性解放・教育に尽力した広岡浅子,帝室会計に転じたのを機に,後半生を,あらゆることを日記に書き付けることにを費やした倉富勇三郎,官僚として{東京美術学校}創設し,俊材を育成するも追放され,以後,思索と海外活動で重きを成した岡倉天心,相場に失敗し渡米,妻のいた別府温泉に現れ,様々なアイディアを次々具体化,世界に知らしめた油屋熊八,文部官僚の中心だったが,沢柳事件で退官すると,成城小学校を中心に新教育運動を指導した澤柳政太郎,真宗伝道で渡米,日本知らぬこと痛感し,日本学の契機拓き,ドナルド=キーンら多くの研究者輩出した角田柳作,物理学者で学士院恩賜賞直後,短歌の弟子と不倫し帝大教授辞任,科学ジャーナリスト先駆者に石原純,敗戦後の歴史観の動揺に対し,日本歴史学会を創設し,{人物叢書}などを始めた高柳光寿,世界放浪で独自の境地を開き,抵抗と反骨の精神を貫き,高齢になって,その生き方が注目された金子光晴,地元の大企業家として,敗戦に,群馬交響楽団創設はじめ,幅広く地域文化を先導し巨大な足跡を遺した井上房一郎,バイオリン奏者だったが,敗戦に,独自の才能教育"スズキ・メソッド"開発,世界に普及し奏者輩出した鈴木鎮一らがいる。
第2話:82歳以上まで活動した長寿者
登退場年齢パターンで,登場年齢にかかわらず,退場年齢が81歳を超える晩退型の歴史人物を拾ってみると,総数は362人で,人物全体数3,635人の丁度1割を占め,古代は13人(晩退型総数362人の3.6%),中世は19人(同5,2%),近世は37人(同10.2%),そして,近代が293人(同80.9%)と,トップページに示したリストの総数3.635人に対して,古代が223人で6.1%,中世251人で6.9%,近世が683人で18.8%,近代が2,458人で68.2%と比べても,近代が圧倒的に多く,時代を遡れば,平均寿命も当然かなり短くなるが,現代と変わらず高齢者はいたこと,そして,その高齢者たちは,また当然のことながら,時代が遡るほど,周囲の人たちが先に,より早くに亡くなってしまい,現代で言えば,孤独な状況になっていたことも知っておいて貰いたい。以下,どんな人物がいたか,他の項目にも登場する人物とも重複を厭わず,できる限り,生年順に挙げてみよう。流石に,錚錚たる人物が並ぶが,このうち,90歳を超えてまで,活動していた超高齢者も,全体で118人と,高齢者の3分の1近くいるが,その人物が目立つように,強調表示した。近代に入ると,流石に,高齢者の数があまりに多くなるので,そこでも,注記するように,90歳を超えた人物に限り,100歳以上まで活動した人物を強調表示することにした。
古代では,70歳直前に参議となり,80歳過ぎに没するまで現役で,奴婢203人を解放した巨勢奈弖麻呂,「華厳経」を研究して,大仏造立の宗教的中核となり,開眼の後,初代東大寺別当に任ぜられた良弁,藤原氏の栄華の時代の影の部分を代表するオカルト的人物の典型として伝説化した陰陽家安倍晴明,政務に明るく公正,道長の妨害にも屈しなかった硬骨漢で,上下,女性からも信頼された藤原実資,高野山の堂塔復興に尽力し,雨乞い祈祷の驚嘆すべき霊験で"雨僧正"として伝説化した仁海,王朝女流文化のパトロネージュとなり,摂関家栄華の極から衰退まで,長い人生を送った上東門院(藤原彰子),高齢になって<前九年合戦>を平定,武家の棟梁として東国源氏の地位を確立した源頼義,父関白頼通の期待担うも皇子ができなかったが,后位を保ち敬意を払われ続けた藤原寛子,そして,大僧正に登りつめる一方,「鳥獣人物戯画」の作者として"漫画の始祖"にも例えられる覚猷(鳥羽僧正)ら,
中世では,武家社会へ転換する大変革期に,歌壇を指導,六条家を圧倒し,和歌と書に新風を吹き込んだ藤原俊成,60過ぎて源氏一斉蜂起に呼応,頼朝から信頼されて御家人筆頭となり,頼朝没時の幕府動揺も防いだ千葉常胤,忽然と現れて,平氏が焼失させた東大寺再建の大勧進となり,南都仏師と宋人技術者活用して完成させた重源,「教行信証」を著し,"悪人正機説"などで仏教を根本的に変革,真に民衆のものにした浄土真宗の開祖親鸞,弟子の忍性と共に戒律復興で新仏教弾圧側の支柱に。社会救済・医療などに献身した叡尊に,師叡尊と共に戒律復興,非人救済はじめ社会事業,献身的な医療活動で"医王如来"といわれた忍性,若くして"和歌四天王",晩年には「新拾遺集」を完成させて二条派の重鎮になった頓阿,80過ぎに,度会神道を大成し,北畠親房に影響与え,諸国勤王家の覚醒につなげることになる度会家行,島津氏5代で,高齢になって戦に奮闘し,90過ぎまで矍鑠としていた島津貞久,東山文化の芸術家らの指導者ながら,ユニークな生涯で"風狂"と"頓智小僧"のイメージが定着してしまった一休宗純,政治力に優れて足利義教・義政に重用され,日本初の外交史書「善隣国宝記」を撰した五山文学僧瑞渓周鳳,75歳過ぎて相国寺の作庭で歴史に登場し,将軍足利義政に用いられ,集中的に仕事をした善阿弥,応仁の乱期も京都に留まり,生活には窮しながらも,公武合体の象徴として尊敬され続けた三条西実隆,日本中世における水墨画の大成者で,画家として個人名が出る先駆けとなった雪舟等楊,そして,室町期最高の大和絵作家で,最高の地位築いて土佐派を中興し,「清水寺縁起絵巻」ほか傑作遺した土佐光信ら,
近世には,富士講の開祖で,徳川家康との関係が伝説化し,105歳に没した長谷川武邦(角行東覚),中年過ぎて信長の最側近となり,平和主義で,秀吉,家康からも敬され,飛騨高山藩初代藩主になった金森長近,真田昌幸の長男で,<関ヶ原の戦>で東軍に加わって,松代藩主となり,その基礎を固めた真田信之,70過ぎて家康に招かれ,江戸幕府創始期に幕府の宗教行政の中心になり,107歳で没した(南光坊)天海,晩年になって,俳諧全盛を導く革命を起こし,'貞徳無くして芭蕉無し'といわれる松永貞徳,家康配下の武士で軍令に背き罰せられて出家,のち詩仙堂を建てて詩文に遊び,江戸漢詩人の祖になった石川丈山,管鍼術で治療範囲を飛躍させ,鍼術で唯一人神社に祀られた杉山和一(検校),遅い登場ながら。養生に努めて長寿を保ち,多分野にわたって膨大な著作をし,晩年の"益軒十訓"で長く影響を及ぼす貝原益軒,名利求めず,衆生済度のために東奔西走,独自の公案体系確立し,臨済宗中興の祖となった白隠慧鶴,すべてからの自由を求め,茶を売りながら放浪,京の若者に多大の影響を与えた在家黄檗僧の畸人売茶翁(高遊外),江戸中期京都画壇を代表し,写生でありながら装飾という独自の画風を確立した伊藤若冲,藩政を近代化して隠居するも,豪奢な生活で財政破綻させ再登板,弾圧を経て,調所広郷抜擢し財政改革した島津重豪,実際の解剖と照合して「解体新書」を翻訳,蘭学の祖となり,その後は政局を批判し続け,長寿を全うした杉田玄白,日本廻国を発願,かつての円空のように各地に仏像彫刻を遺した木食五行(明満上人),庶民教化に尽くし,隠棲後も敬慕を受け,絵は独自の"厓画無法"の境地に達した仙厓義梵,林家の塾長から昌平黌教授となり,門下から,幕末の多彩な俊秀を輩出した佐藤一斎,江戸中期に合理的農業技術に関する多くの著作を成し,明治維新後に大きく評価された大蔵永常,年齢とともに画風次々展開,「富嶽三十六景」で日本を代表,「北斎漫画」の世界も開いた葛飾北斎,シーボルトに出会い,西洋植物学を学んで近代化に挺身,維新後も長寿を保ち日本植物学の祖になった伊藤圭介,500余人の歴史人物を描いた「前賢故実」を出版し,近代歴史画隆盛に先鞭をつけた菊池容斎ら,
近代になると,あまりに多くなるので,90歳を超えた人物のみとし,100歳以上で没した人物を強調表示することとする。甲州財閥のリーダーであった若尾逸平,天竜川治水,磐田植林,三方原開墾,出獄人保護など,社会のために一生を捧げた金原明善,悲惨な体験から,女子学院設立,廃娼運動をはじめ,女子教育・婦人運動に生涯をかけた矢島楫子,維新時に鉄砲店を開いて巨利を得,戦争の度に伸張して大倉財閥を築き,大陸進出・文化事業にも力を発揮した大倉喜八郎,京舞井上流を大成,「都おどり」を京名物にし,96歳で襲名,100歳で舞い話題になった井上八千代(3代),諸学校の経営で,明治婦人界の大立物となり,99歳まで教壇に立った棚橋絢子,兄妹画家で評判になり,以後,絵一筋,百歳まで現役で没した女流洋画家の草分け的存在の吉田ふじを,戊辰戦争に脱藩した唯一の大名で,維新後は平民扱いも,長命で最後の生き残り大名になった林忠崇,公卿出身で,転変の後,政界入り,年とともに重要な役割を担うも,軍国化止められなかった西園寺公望,衆議院議員を連続25期60年,自由主義者として藩閥専制・軍国主義に抵抗し続け"憲政の神様"と呼ばれる尾崎行雄(蕚堂),真珠養殖に取り組んで成功,鑑定の名人としても一流の折り紙がつき,"世界の真珠王"となった御木本幸吉,婿養子の夫が死去,家業を継いだ長男も死去し,女性のみの株式会社{田中一誠堂}で事業拡大した田中かく,独力で日本の本草学を植物分類学に止揚するも,アカデミスムの犠牲となり,80過ぎにようやく認知された牧野富太郎,無学全盲ながら,刻苦勉励し,政財界に多くの信者と支持者を得るまでになった山本玄峰,英米と深い関係を築き,仏教や禅思想を広く世界に紹介,内外の学者から尊敬された鈴木大拙,無敵の女流武芸者として名声を得,諸女子校で教授,薙刀術の世界をリードし続けた園部秀雄,キリスト者で,景教史研究の国際的権威とみなされた佐伯好郎,岡倉天心に認められ,院展彫刻部で指導的役割,100を越える長寿を彫刻一筋に生きた平櫛田中,海外駐在生活の大半が中国で,変動期の対中国外交を担当,的確な判断と対応で名声を得た芳沢謙吉,音声学・民族学など幅広い分野で指導力を発揮し,晩年には,定番となった国語辞書「広辞苑」を生んだ新村出,43歳の時,地位財産一切放棄して説法始め,会員組織により,各界のトップを多数訓育した中村天風,日本のロシア語研究の先達で,後進の殆どに影響を与え,世界水準超える「岩波露和辞典」を遺した八杉貞利,双子の兄松次郎と{松竹}を設立,歌舞伎界を支配した後,{東宝}と対抗して映画全盛時代を築いた大谷竹次郎,明治の下町風俗を描き,文学性を画面に定着させる一方,優れた随筆を遺した鏑木清方,<大正デモクラシー>象徴する"初恋の味"のコピーなど,卓越したアイディアマンの{カルピス}創業者三島海雲,本当の自由人となった70半以降の最晩年に独自の画境で大評判になるも,勲章は全て辞退した熊谷守一,ロシア領漁場開拓し{日魯漁業}創立,<敗戦>の打撃で政界入りし,日ソ漁業交渉に奔走した平塚常次郎,"オギノ式避妊法"を開発して世界に貢献し,子宮癌にも独自の手術法を考案した荻野久作,カントの権威となり個人主義を説いて弾圧され,<敗戦>後は文相になる一方,野球振興に尽くした天野貞祐,自由律俳句のリーダーとなって尾崎放哉・種田山頭火らを育て,のち評論・随筆家として長く活動した荻原井泉水,若くして才能を発揮,高齢になって「長崎平和祈念像」の作者となり,百歳を超えてなお制作し続けた北村西望,浮世絵はじめ,博覧強記,話術に巧みで,種々の公職に就いて大きな足跡を遺した経済学者高橋誠一郎,太田水穂と結婚し,{潮音}を共同運営,夫の死去後も,歌壇女流中の最長老として活躍した四賀光子,人文地理学を主導。地理教育論にも功績があり,近代日本の地理学を振興,多くの人材を育てた田中啓爾,ローマ字短歌が石川啄木を触発,戦時下に「田安宗武」論,戦後は国字改革,図書館運動などに貢献した土岐善麿,「海神丸」で登場し,精緻な観察眼とみずみずしい精神保ち,100歳で没するまで傑作を書き続けた野上弥生子,新たな様式の創出に挑戦し続け,"青邨様式"を確立後も,肖像や花鳥画に独自の画境を開いた前田青邨,「世間知らず」で文壇に新風,生活と社会改造の{新しき村}建設,独特の野菜絵が人気を持ち続けた武者小路実篤,ゴゼ唄の伝承者で,90歳近くになってラジオとTV出演で"伊平タケブーム"になった伊平タケ,アメリカの確かな友人として,大戦前後の日米関係,のちの米中正常化に大きな役割を果たした政治家笠井重治,忌憚のない発言と潔癖性が障害になるも,漢語調の文体と豊かな表現で読者を魅了した社会主義者荒畑寒村,全人教育を唱え,成城学園町を開発後,さらに理念実現に向けて玉川学園を創設し,長期に実践した小原国芳,全財産を投げ打って,91年の生涯を桜の保護・育成・研究に捧げ,"桜男""桜博士"になった笹部新太郎,賀川豊彦の妻で,夫に従って活動し,死別後も生涯奉仕救済活動を行った賀川ハル,生涯マイペース,多様な人間模様を傑出した心理描写で,志賀直哉から"小説家の小さん"と言われた里見弴,90過ぎまで,日本中を自由に巡り,何でも自作した合理的自然人のスキー研究家猪谷六合雄(千春の父),人生詠で若い知識層に多大な影響を与え,生活詠に新境地を開き,老大家となって新人を育成した土屋文明,小説・童話両分野で旺盛に活動,親子ともに楽しめる家庭文学を生み出し,新人の育成にも尽力した坪田譲治,辛亥革命後の中国で底辺の子らの自立を助け,<敗戦>で全て失うと,妻郁子と桜美林学園創立した清水安三,商業建築への理解と独自の形式美をみせ,その風貌もあわせ,"最も建築家らしい人"と言われた村野藤吾,{水平社}名考案し創立全国大会開催,戦時下の国家社会主義経て,戦後は部落解放同盟リードした阪本清一郎,共産党への弾圧でソ連亡命し活動,戦後は長く党議長,百歳になって戦前の同志密告が発覚し除名された野坂参三,ゲノム分析で独創的な業績。"種なしスイカ"で知られ,カラコルム探検隊長,冬季オリンピック団長も務めた木原均,画家として名を成すも高齢になって失明,短歌とエッセイに全力注ぎ100歳まで活動し続けた曾宮一念,町工場を総合電機メーカーに発展させ,経営哲学で<敗戦>後の復興を象徴,世界的存在になった松下幸之助,郭沫若の日本留学中に結婚も日中戦争で別離,郭の再婚で母子家庭も,郭没後に栄誉を得た佐藤オトミ,無学歴ながら,近世文人の百科全書ともいえる膨大な伝記を書き残し,多大の影響を及ぼした森銑三,<人民戦線事件>で検挙され,<敗戦>後,東大に復帰して復興期の経済政策を指導した有沢広巳,インドネシアとの民間交流に献身した貿易家石居太楼,アメリカで日本語新聞を発行し続け,日系移民の支えとなった寺沢国子,{石川島}{東芝}再建で"企業再建の神様",高齢になって{臨調}{行革審}会長になった土光敏夫,独自の蒔絵技法を確立して,人間国宝。日本工芸会を結成して,振興に尽力した"うるしの神様"松田権六,100歳に近い生涯,男性遍歴を重ねながら小説を創作し続けるとともに,和服デザイナとしても活躍した宇野千代,腰の据わった中国通として,戦後,全日空社長の一方,日中貿易推進,友好のために尽力し続けた岡崎嘉平太,<戦時>に多くの創作,60過ぎにノーベル文学賞候補となり,年齢を加えるほど高く評価された芹沢光治良,弾圧で帝大追われ,大陸に転出するも,90を超えなお世人驚かす業績を挙げた滝川政次郎,国際的視野から日本女性地位向上に尽力した藤田たき,<敗戦>後,大日本愛国党党首として,街頭に立ち続け,ユニークな存在となった赤尾敏,早くから栄養問題を啓蒙,<敗戦>後,基礎食品群を提唱,長寿社会化への道を開いた香川綾,A級戦犯容疑となるも釈放され,勝共連合と船舶振興財団で,隠然たる力を発揮し続けた笹川良一,戦時下にブラウン管や受像回路を発明,テレビ放送の基礎を築くも,<敗戦>で評価が遅れた高柳健次郎,傑作「のらくろ」連載で一世を風靡,影響受けた俊秀が多数育った。晩年リバイバルで続編を描いた田河水泡,戦前は<西安事件>をスクープ,戦後は{国際文化会館}を創設した松本重治,{立石電機(オムロン)}創業し,オートメーション・システム機械で,世界的企業にした立石一真,名演「藤娘」,6代尾上菊五郎と共作「うかれ坊主」ほか傑作多数の日本舞踊家・振付師藤間勘十郎(6代),わが国における経営史研究の開拓者で,戦後改革や日本経済発展に主導的な役割を果した脇村義太郎,比較文化学を開拓し,その確立と後進育成に努めて退官後,長年の魅力的研究成果を次々と発表した島田謹二,広島の原爆で親族を失い,以来,妻俊と共同で「原爆の図」を描き続け,象徴的存在となった丸木位里,戦前に名を成していたが,敗戦で転換,失われつつある日本の民家を描き続けて人気を得た向井潤吉,新興俳句運動の先導的役割を果たし,昭和俳句の歩みの基盤と方向を決定づけた山口誓子,戦時下に"棲み分け理論"提唱,戦後,モンキーセンター設立,探検家でもあった動物学者今西錦司,若くして登場,晩年に,被差別部落扱う「橋のない川」を書き続けて決定的評価を得た住井すゑ,<敗戦>による華族廃止で開拓農民となり,全国的活動,対照的な環境を生きた徳川幹子,マンドリン一筋に,100歳近くまで,約550曲を作曲,海外でも評価された中野二郎,若くして新劇舞台の名女優となり,<敗戦>後,当り役「夕鶴」のおつうで,上演1000回の記録した山本安英,戦前長期にアメリカで生活,戦後,追放されて帰国,女性問題を中心に評論活動し,多くの論争を起こした石垣綾子,優れた容姿と高い技芸で"動く浮世絵",料亭の女将から経営者も,日本舞踊は95まで生涯現役だった武原はん,サイパンで働くうち敗戦,土地は接収,本土復帰も事態悪化でデモ先頭に立った。沖縄の"反戦ばあちゃん"松田カメ,小学校を中退して働き始め,プロレタリア作家として登場,晩年まで優れた作品を書き続けた佐多稲子,左翼演劇のリーダーとして活躍,<敗戦>直前に{俳優座}を結成,復興期の演劇をリードした千田是也,三岸好太郎の妻で,18歳から94歳まで,ゆうゆうと描き続けた洋画家三岸節子,{文学座}創立時からの中心,「女の一生」ほか,多くの当たり役で,日本を代表する女優になった杉村春子,洋裁研究所開設し,"お茶の間洋裁""ニューきもの"など草分け的存在になった田中千代,{立正佼成会}を開いて大教団にし,諸宗教間の対話や世界平和運動の先頭に立って活動した庭野日敬,日本における近代写真の成立に重要な貢献をするも,戦後,表向きの活動を断念したため忘れられた堀野正雄,画壇の中心を歩み,<敗戦>直後に風景画家として地歩,一般からも人気を集め続けた東山魁夷らで,
強いて共通する点を挙げれば,自由人でマイペース,研究熱心なアイディアマン,僧侶はじめ」宗教分野を別にすれば,絵画・彫刻はじめ芸術的活動が多いというあたりであろう。
第3話:退場後,81歳を超えて死去するまで,27年を超える年月を過ごした人物
例えば定年退職後の長い人生の生き方を考える上で参考になるとも考えられる,退場理由のうち,闘病余生型でなく,退隠余生,転出離脱型で,さらに,失脚不遇型についても,超長期となっている人物について,それぞれ退場後の状況を簡単に記してみよう。それぞれに異なる,多様な生き方が,見て取れよう。
1:転出離脱型
幕末に長崎奉行与力として困難な外交に取組んできた大井三郎助が,50歳の時,明治維新で御用が終わると,54歳に隠居するが,62歳の時,1834年に横山丸三が創始した開運のための修養法という淘宮術に入門,77歳には,免許皆伝となり,弟子を300人も抱えるほど元気な老後を過ごして,84歳で没しており,明治初めに,陸軍で,初の純国産の小銃"村田銃"を発明した村田経芳は,52歳に,予備役になるとともに,貴族院議員に勅撰され,まもなく起きた日清戦争に,改良連発銃が用いられ,日露戦争直前には初めて清国に輸出されるのを見ながら,弓術の研究・著述などしていたが,68歳頃,健康を損ね,83歳で没した。郵便制度の創始・電話事業の開始・国字改良など,維新直後のメディア近代化に決定的役割を果たして,名が広く知られている前島密であるが,日清戦争が始まる前に,56歳で引退,北越鉄道社長になり,帝国教育会の国字改良部部長になるなどしていたが,日露戦争後の,75歳には,全ての役職から退き,84歳で没している。
寒冷で無理とされていた北海道で,官庁の否定乗越え,工夫重ねて,初めて米作を成功させた中山久蔵は,明治14年の政変の起きた1881年,53歳の時に,明治天皇の北海道巡幸の折,有栖川宮が来訪する栄誉の後は,地元の有力者となって,公共工事に尽力しながら,91歳で没し,反権力大衆新聞{二六新報}の刊行し,<日露戦争>前夜に一世を風靡した秋山定輔は,43歳で,社長を辞任,翌1912年の大正政変以降,政界の黒幕となり,1940年の新聞統制で{二六新報}が廃刊となった後も長寿を保ち,敗戦後,82歳で没した。"大正デモクラシー"の先駆的な役割を果たした浮田和民は,ロシア革命の起きた1917年,58歳で,論壇の第一線から退いて後も,早稲田大学の教授の職を務め続けていたが,82歳に,退職し,86歳で没し,アメリカで排日運動下,在留邦人世話しながら勉学,太平洋戦争では海軍病院船看護婦長を務めた牧田きせは,敗戦となった55歳,飛騨に帰郷,高山や富山の看護学院で後進の育成に努め,75歳には,ナイチンゲール記章を受章し,83歳で没した。
東の美濃部達吉と並ぶ<大正デモクラシー>の指導的な論客で,"大学自治"を守る先頭に立った佐々木惣一は,戦時弾圧の強まるなか,57歳に,{公法雑誌}を創刊,以後,その編集に専念,敗戦直後には,近衛文麿とともに憲法改正案起草にあたるも,GHQの意向で公表に至らず,74歳に,文化勲章を受け,87歳で没し,キリスト教を背景に,女性解放運動の先頭に立って活動した岩内とみゑは,47歳の敗戦後,夫の郷里長岡の婦人会会長や保護司などを務め,86歳で没しており,同じく,キリスト教婦人運動家で,戦前に日本のYWCAの基礎を築いた加藤タカは,敗戦前の57歳に退職し,戦後,新潟県に帰郷,GHQの新潟顧問を務めた後,県立高校の英語教師を長く務め,92歳で,没した。戦前の大不況期に,日本映画最初のスターになった栗島すみ子は,日中戦争の始まった1937年,35歳で引退,その後は,一座を結成して,舞踊劇で活躍するとともに,舞踊教室を開いて盛況を極め,54歳には,映画「流れる」に特別出演,往年の大スターの貫禄を見せ,85歳で没し,{綴方生活}{生活学校}を創刊し,生活綴方・生活教育運動の教師らに指導的影響を与えた野村芳兵衛は,二二六事件の起きた1936年,40歳の時,経営難で学校を解散して以降は転変,戦後は岐阜県に復職し,小中学校校長を務め,62歳,その定年退職後は,昭徳女子短大の教授となり,90歳で没した。
十河総裁のもとで"新幹線"を実現させたことで知られる島秀雄であるが,1963年,62歳の時,開業が確実になった段階で,予算超過の責任を取る形で十河が追い落とされるのに従って退陣したため,翌年の,開業の晴れ舞台には不在という悲運ではあったものの,朝日賞,スペリー賞,ジェームズワット国際ゴールドメダル,文化功労者など充分に報われ,68歳には,創設された宇宙開発事業団理事長に就任していて,それなりの活動をし,76歳に退職,93歳には,文化勲章を受章し,97歳で没しているが,それまで成してきた専門とは,あまりに異なるものであることから,転出離脱型としたものである。
2:退隠余生型
中世において,武家出仕唯一の(画僧で無い)俗人絵師で,若くして雪舟が認める才示し,狩野派の祖になった狩野正信は,49歳の時,足利義政の御用絵師となり,63歳に,最高位の法眼に叙されると,子の元信に,御用絵師を譲って隠退したらしく,96歳で没している。幕末に苦労して写真術を修得,職業写真家の開祖になった下岡蓮杖は,幕末に,すでに大きな財産を築いたものの,新しもの好きで,明治維新になるや,色々なものに手を出して,振るわなくなり,53歳には,写真館を廃業,キリスト教への信仰と画筆を楽しむ余生を送って,91歳に没し,庄屋としての工事契機に,維新政府の官僚となり,安積疏水・琵琶湖疏水などの建設を指揮した南一郎平が,帝国憲法が発布された1889年,53歳の時の工事で,大きな損失を出して以降は,会社の名義人として残るのみで,実業からは隠退したものの,晩年には,素封家として,洋館のある大屋敷に住み,村の年寄にご馳走するなどして,83歳に没している。
日露戦後の28歳には,棟梁となった鉄川与助は,五島列島中心に,九州西北部で多くの教会を建築し続けていたが,1944年,65歳の時,企業整備令によって,{鉄川組}が統合されてしまい,戦後,復したものの,家督を子に譲って隠退,以後は,自社の建築の現場を見て回るのを日課とし,79歳には,長崎県知事より建設功労者の表彰を受け,97歳で没し,独自の研究法で画期,日本初の法制史の体系的講義を行った中田薫は,日本初の大学停年制導入に貢献すべく,60歳で退官,敗戦翌年の69歳には文化勲章を受章し,90歳で没している。放浪体験と信仰をもとに,日露戦争直後,29歳で,日本初のドライ・クリーニングを開発し,{白洋舎}を創業した五十嵐健治は,51歳には,全日本ドライクルーニング組合を結成して組合長にもなったが,1941年,64歳に,日米開戦となるや,経営を子どもたちに任せ,以後を,キリスト教の伝道に費やして,95歳で没し,<大正デモクラシー>期の28歳に,婦人セツルメント運動始めた奥むめおは,<敗戦>後に{主婦連}創立,参議院議員も3期務め,長く活動し続けて,70歳で引退,以後も,{主婦連}の象徴的存在として存在し続け,平成に入って,100歳で没した。
転変の後,37歳に,理学博士となり,後の東京工業大学の教授に定着した永海佐一郎は,青少年向けに,化学の本を次々著作,敗戦まもない,58歳の時には,現役中ながら伝記が書かれるほどであったが,60歳に停年退職すると,他の大学等へは行かず,故郷の隠岐島に帰り,自宅に実験室を設けて研究を続け,89歳で没し,近年,有名になった白洲正子の夫白洲次郎は,英国貴族のダンディズムを武器に,吉田茂の懐刀としてGHQと渡り合い,日本復興の切札となる通産省を創設したほどの人物であったが,52歳の吉田内閣最後の総辞職で表舞台から退場,その後は,妻正子の文などによって,後に知られる隠遁的生活を送り,83歳,葬式無用,戒名不用と言い遺して没した。
3:失脚不遇型
最も有名なのは,関ヶ原の戦の西軍で敗れ,八丈島流人1号となり,在島50年にして病没した宇喜多秀家だろう。また,大村純忠の娘で,松浦鎮信の子と結婚,幕命に殉教覚悟で棄教拒否貫き,隠棲となり,長寿保った大村メンシヤも知られているが,「五山堂詩話」で漢詩の大衆化を促進し,一躍詩壇に君臨した菊池五山は,47歳の時,"書画番付け騒動"の黒幕と目されたたことで,人気喪失,一族の家を継いで,高松藩主に仕え,60歳の時には,江戸の大火で,それまでの詩稿の全てを焼失する追い打ちもあったりするが,80歳まで勤め,安政大地震の起きた1855年,86歳で没している。
文明開化のエースで,日本の統計学の開祖とされる杉亨二は,時代に先駆け過ぎたため,内閣が発足した1855年の57歳の時,統計院が廃止されて辞官,共立統計学校も廃校となり,翌年,{スタチスチック雑誌}を創刊,75歳には,法学博士号を受け,82歳に,国勢調査準備委員会が設置されて委員になるも,その実施前に,89歳で没し,富士山頂越冬気象観測に挑戦した野中到は,危険と下山させられるも,壮挙が評判になって,凱旋将軍のような歓迎を受けたが,本格的な観測所建設を願って募金に乗り出し,34歳には,著書を出版するもみのらず,忘れられた存在になってしまったが,戦中に当時の話を聞いて感動した橋本英吉が小説にするも検閲で発表できず,戦後になって雑誌に発表し,野中の生存を知った橋本が来訪してまもなく,88歳で没している。日本人初の南極大陸上陸で有名な白瀬矗の場合も,よく似ていて,日本に帰着した54歳には,大歓迎されるも,その後は探検費用の返済に追われ,戦時体制の進行とともに,国威発揚にため,その壮挙が見直され,記念碑が建てられ,日米開戦後には,著書も出版されたが,敗戦まもなく,85歳で,不遇のまま没している。
「日韓両国語同系論」を著し日本語強制に抗議,アイヌ文化にも共感を示した金沢庄三郎は,排斥され,45歳に辞職,晩年は永平寺別院長谷寺で過ごし,敗戦翌年,74歳に得度,82歳には,長谷寺附属幼稚園の初代園長になったが,「日鮮同祖論」が,日本の朝鮮支配に利したと批判されるなか,95歳で没した。{赤瀾会}を設立し,女性初のメーデーに参加者で,女性初の治安維持法違反者になり,三・一五事件で検挙された九津見房子は,翌年,検挙された夫三田村四郎が転向したため,43歳に,出獄後は,転向者の救援にあたるも,ゾルゲのスパイ活動に加わって,51歳に,逮捕入獄,敗戦の55歳,GHQの思想犯釈放令で,餓死直前に出獄,日本共産党からの復党の誘いも拒否,反共主義者になった三田村の妻として,左翼から排斥されるなか静かに暮らし,一切語らぬまま,90歳で没した。維新の志士の風格をもつ右翼理論家として軍と諍った津久井龍雄は,44歳に敗戦となり,戦犯を覚悟も公職追放に留まり,解除後,都市議員団の一員として訪問した中国にかつて描いた理想を見出し,中華人民共和国を全面的に支持するようになって,88歳に没している。
陸軍対応の戦争推進派と対立し,最後の海軍大将に祀り上げられた井上成美は,56歳の敗戦後,一切の公職に就かず,世間とも交渉を断ったまま,86歳で没し,戦時体制下の天皇側近で,東条内閣成立に関与し,終戦の聖断を演出した木戸幸一は,56歳で,A級戦犯になったが,<極東裁判>の証拠物件に,日記を提出して,その円滑な進捗に協力,終身禁固刑となり,66歳,病気で仮釈放されて自由の身になって以降,表舞台には全く出ず,88歳で没している。満州国を動かす"2キ3スケ"の一人で,東条英機側近として大きな発言力を保持した星野直樹も,敗戦後の53歳,A級戦犯になり,終身刑を宣告されるも,66歳に放免されると,東急国際ホテルはじめ,諸会社の社長ほか役員を務め,86歳で没し,ファッショ的な改革・対ソ戦・軍国主義教育を推進した荒木貞夫は,日中戦争開始翌年,61歳で,近衛内閣の文相になって,徹底的軍国主義教育を推進するも失敗して退場したが,敗戦後,68歳に,A級戦犯となり,やはり終身刑となったが,78歳に,病気で仮出所,まもなく釈放され,89歳で没し,58歳の時,<敗戦>処理内閣の首相に祀り上げられた東久邇稔彦(親王)は,国体護持を掲げ,思いつき的政策が,GHQに忌避され,その指令を受けて総辞職した上,皇籍離脱となるが,以後,旧皇族として転変,騒動も起こすなどしながら,103歳で没している。
"八木アンテナ"を発明するも無視されるが,イギリス軍の戦利品にあったことから,一躍評価され,天皇に進講し,勲一等瑞宝章となった八木秀次であったが,敗戦で,GHQに,家を没収されたのをはじめ,一気に窮状に陥り,以後の転変は省略するが,90歳で没した。アイガー東山稜初登攀に成功して力を世界に示し,<敗戦>後,1956年,マナスル初登頂で登山ブームを起こした槇有恒は,その2年後,64歳の時に,自ら経営する飼料会社が倒産,以後,年金と財産切り売りで生活,86歳に脳梗塞を起こし,95歳に没した。五一五事件のあった1932年,18歳の時,フランスから帰国して華々しくデビューしたピアニスト原智惠子は,再渡仏してヨーロッパで活躍するも,1940年,ドイツ軍のパリ侵攻を逃れ帰国,敗戦後も,日本で活動を続けるうち,野村光一を筆頭に,音楽評論家がら猛烈なバッシングを受け始め,独立回復で,再び渡仏,チェロの巨匠カサドに出会い,世界的ピアニストになるも,日本では無視されて報道されないなか,帰国,夫になったカサドとの演奏を続けて,至高の域に達するが,自らの体調,夫の死,長男の大麻使用による逮捕など苦難も続き,石油ショックの起きた1973年,59歳に,野村光一「ピアニスト」によって,ついに,闇に葬り去られ,日本に里帰り中,車にはねられ,手に,致命的後遺症,76歳,カサドコンクールを終えた後,突然,日本に引き揚げ,以後,痴呆でひっそりと入院生活を送り,87歳に没している。
この論TOPへ
ページTOPへ
第2論:若い人の人生設計のために
第1話:企業など組織に属して出世,転身し,歴史に残り,かつ,高齢で没した人物
登場までの道で,軍や宗教などを除く「組織」,すなわち,古代の朝廷,戦の時代の中世では,安定した組織が無かったので飛ばし,近世の幕府,近代の政府や企業などに入って,36歳前後(早出(中・後)から中出(前・中))までに登場し,81歳超えて生きた人物。戦前は,陸海軍に属する人物が多かったが,それも合わせて,登場年齢は遅くなる場合が多く,ある組織に属したまま辞めて,高齢まで生きた人物には意外に少なく,第三の人生に移った方が長寿になっていることから,現在の定年延長策は疑問である。活動の分野型からみると,近代では,ほとんどが官僚であって,その役割が,国民と乖離していることの問題も大きいと言わざるを得ない。
古代においては,政務に明るく公正,道長の妨害にも屈しなかった硬骨漢で,上下,女性からも信頼された藤原実資が,藤原北家でも小野宮流の生まれで,円融上皇の強い推しで,32歳,参議となり,道長政権の安定に寄与するとの判断で,44歳には,権大納言・右大将に至り,家説に誇りをもって,行事を主宰するなどして,道長にも一目置かれ,64歳には,ついに右大臣に昇り,最期までしっかりとして,89歳で没している一方,道長の長男藤原頼通は,25歳で,内大臣から摂政,27歳には関白になり,天皇3代50年間,摂関をつとめながら,ついに外孫皇子を得ず,75歳に,弟教通に関白を譲り,宇治平等院に隠棲,82歳で没するという,全く異なる人生であった。
近世では,津藩主藤堂高虎に仕え,24歳の時,二条城を1年で竣工させて,以後重用される西島八兵衛が,高虎が養女を嫁がせていた讃岐高松藩主生駒高俊が死去して,幼い子が襲封すると,その後見となって,諸事業を差配,44歳に,生駒騒動が起きるも連座を免れ,幕命で,その前後処理にあたり,52歳,幕府に乞われて,城和奉行になり,津藩の大新田を完成させ,その後も,多くの業績を挙げて,名代官ぶりを示し,81歳に致仕して隠居,84歳に没している。幕臣の子に生まれ,家督を相続し,35歳の時,老中松平定信に用いられた屋代弘賢は,若い頃から,書籍や古器物の蒐集に努めていたことから,56歳には,「寛政重修諸家譜」編纂の大事業に参加,在野の人たちとも,蒐集したものを相互に披露するような集まりも開催するなど,幅広く活動し,多くの著作を遺して,天保の改革の始まった年,83歳に没しており,幕府の役人でも,高齢まで,かなり自由に活動していた人物もいたことが分かる。
近代に入っては,まず,数は少ないが,人生の出発にあたり組織に属したことで,独自の人生を開いたり,その組織に属しているが故に,大きな業績を遺した人物を取り上げると,維新政府の天才の一人と言われる松方正義は,維新時に34歳で,大久保利通の推挙で日田県知事になるや,業績を挙げ,民部大丞に栄転も,36歳,大久保が全権掌握する大蔵省権大丞に降格,39歳に,租税頭に昇進すると,関税回復の建議をするなどして,翌年,地租改正局に出仕し,通貨流出防止策を建議して,大蔵大輔に昇進,1881年の46歳,明治14年の政変によって,失脚した大隈重信の後を継いで大蔵卿になるや,日本銀行を創設,"松方財政"で資本主義社会の基礎を築くのである。
25歳で,内村鑑三の影響で,東京帝大土木工学科を卒業した青山士は,内村の弟子でもあった恩師の勧めで,翌1904年,唯一の日本人技術者として,パナマ運河開削工事に参加,7年後に帰国すると,無試験で,内務省技師に採用され,直ちに,荒川放水路建設の大プロジェクトに参加,まもなく主任となって,49歳の時,完成させ,続いて,信濃川分水工事にも所長になって,わずか6年で完成させるなどして,56歳,技術系トップの内務技監に任命されるとともに,土木協会会長に就任するが,2年後,技術官僚と事務官僚が激突する大事件が起き,責任をとって退官,以後は,クリスチャンとして,清廉潔癖に過ごし,85歳に没している。やはり,東京帝大土木工学科を,24歳に卒業して,内務省に入った安芸皎一は,28歳に,鬼怒川改修工事の主任になるとともに,処女作「流量測定」を刊行,独創的論文「河相論」を連載して,40歳に,土木学会賞を受賞するほど,専門分野でも優れていたが,敗戦後,GHQに関係するアメリカの学者の推挙もあって,46歳,経済安定本部資源委員会の初代事務局長に引き抜かれ,国際的に活躍,54歳には,科学技術庁創設で,初代科学審議官となり,61歳に退官後も,関東学院大学教授を核に幅広く活動し,82歳の最終講義翌年に没した。
独自の民俗学を開いた柳田国男は,帝大法科大学政治科で農政学を専攻し,卒業した25歳,農商務省に入り,日露戦争前後の10年ほどの間に,農業政策等について,多くの論文等を発表するも,ほとんど受け入れられず,農政学者として挫折,九州に旅行して,椎葉村の古い狩猟方法に感動し,岩手県出身の佐々木喜善から,遠野の不思議な話を聞いて魅惑され,35歳に,「遠野物語」を発表して,新たな世界を出発したのである。
面白い例は,帝大政治科を卒業し,逓信省に入って,初代北京郵便局長になった下村宏(海南)で,ベルギー留学し,日露戦後の1905年,30歳の時,帝大で保険制度について講演して注目され,簡易生命保険制度を実現させるなどする一方,台湾総督府民政長官に抜擢されて,当地でも活躍,朝日新聞の誘いに応じて,46歳に退官して入社,1923年の関東大震災での社屋焼失や朝鮮人暴動デマ抑止に奔走したのも束の間,ラジオ仮放送で講演すると,名手の評価を得て,講演依頼が殺到し,全国行脚,1936年,二二六事件に遭遇するや,朝日も退社,大日本体育協会会長になるとともに,政治家として活動を始め,翼賛選挙の放送も好評で,日本放送協会会長になると,天皇のラジオ出演を画策し始め,鈴木貫太郎内閣の国務大臣兼情報局総裁となって,異例の天皇拝謁,ついに,天皇がマイクの前に立つ玉音放送を実現し,敗戦の衝撃を和らげることに成功も,A級戦犯容疑で不起訴も公職追放,解除後,公明選挙連盟の常任理事となり,自らも参議院に立候補したが落選,まもなく82歳で,濃密かつ波乱に満ちた人生を終えたが,下村と同じ逓信省ではあるが,その工務局に,東北帝大を卒業して入った松前重義もまた,内村鑑三に傾倒して,教育に関心を抱き,無装荷ケーブルを発明・完成した翌35歳,二二六事件の年に,学会から祝い金を贈られると,借金も加えて{望星学塾}を開く一方,政官界に人脈を築き,調査課新設を勝ち取って初代課長,さらには,工務局長になり,42歳には,{東海大学}の前身となる専門学校を創立したが,東条首相を批判したため,二等兵として召集され,南方戦線に従軍,敗戦で,奇跡的に生還するも,翌45歳,逓信院総裁を最後に退官,51歳,公職追放が解除されるや,{東海大学}の理事長・学長になり,衆議院議員にもなって,59歳には,民間初の{FM東海}を開局,その後,マンモス大学へ発展させ,国際的に幅広く活動して,90歳に没している。
帝大法科大学を驚異的成績で卒業して大蔵省に入り,日露戦後の40歳の時,第1次西園寺内閣で大蔵次官になった若槻礼次郎は,46歳,第3次桂内閣の蔵相になると,立憲同志会の創立に参加して政党政治家への道を踏み出すが,第2次大隈重信内閣の蔵相を辞任して以降,加藤高明総裁と苦節10年,58歳の時,護憲三派が圧勝して成立した加藤内閣の内相となり,60歳,加藤首相の病気で代理を経て,ついに,第1次内閣を組閣するも,幣原外交の軟弱を非難されたところに金融恐慌が起きて総辞職,1930年のロンドン海軍軍縮会議の首席全権とあいて条約に調印後,浜口雄幸首相が狙撃されて病状悪化したため,翌年,立憲民政党総裁を引き受けて,第2次内閣を組閣するも,満州事変が起きて閣内不統一に陥り総辞職,翌年には,民政党総裁も辞任,以後,重臣として,反東条運動に連なり,終戦に当たっては,ポツダム宣言受諾の重臣会議に列席,極東裁判で証人として出廷,宇垣一成,岡田啓介,米内光政とともに,キーナン首席判事に招待された翌年,83歳で没し,純官僚から政党政治家を経て首相になった嚆矢で,また,官僚の本質には,平和志向があることを示している。そのことは,大久保利通の子で,維新政府の,主に外交畑で出世してきた牧野伸顕が,日露戦争の終わった翌年,45歳に,第1次西園寺内閣の文相として初入閣,1919年,58歳には,ベルサイユ講和会議に,西園寺首席を助ける次席全権となり苦心後,宮内大臣を経て,64歳。内大臣に転じ,以後,宮廷の実権を握って,天皇を輔弼,財閥,政党,官僚,軍部の利害の調整に努めるが,軍部台頭とともに,親英米の非難を受け,74歳,斎藤実に地位を譲ったが,直後の二・二六事件で襲撃され,危うく難を逃れるも,隠退し,敗戦まもなく,88歳で没するも,その開明的立場は,娘婿の吉田茂によって,戦後の政治に繋がっているといえ,また,日露戦争終結の1905年,東京高商在学中に外交官試験に合格して外務省に入った佐藤尚武は,ロシアを振り出しに出世,1927年,45歳の時,国際連盟日本国事務局長となり,日中戦争の始まった年には,林内閣の外相に迎えられるも,'外交危機は日本の考え方一つ'との議会発言が軍部反発を招いて,内閣は崩壊,その後,東郷茂徳外相の懇請でソ連大使となり,終戦に向けて,ソ連への和平仲介依頼を命じられるも,無条件降伏しかないと主張,戦後は,国際連合協会会長となるとともに,参議院議員となり,1期は議長も務め,74歳には,日本の国連加盟を承認した総会に出席,83歳,政界を引退して,89歳で没し,さらに,原敬が首相になった年に,外務省に入った西春彦は,35歳,通商局第一課長となり,幣原喜重郎外相の平和外交を推進,その後,累進して,日米開戦の年,外務次官となり,東郷茂徳外相を補佐して日米交渉の妥結に努力するも空しく,翌年,東郷とともに辞任,敗戦後の公職追放解除後,59歳で,戦後の初代オーストラリア大使,3年後には,イギリス大使となり,65歳で退官後も,日本の外交について意見,72歳,岩波新書で「回想の日本外交」を著し,93歳で没しているように,外務省になれば,一層,明確になる。
他方,東大法学部を卒業して司法省に入り,累進して,明治も終わる1912年,45歳に検事総長になった平沼騏一郎は,57歳に退官すると,政党政治が展開するなか,官界に復古的日本主義の政治観を広げて抵抗,政変の都度,首相候補に挙げられるも,元老西園寺らに警戒されて実らなかったが,二二六事件後,枢府議長に昇格,1939年の72歳,ついに内閣を組織したが,独ソ不可侵条約の報に'複雑怪奇'と退陣,78歳には,再び枢府議長となり,ポツダム宣言受諾を巡っては無条件降伏反対の立場をとり,敗戦後,A級戦犯で終身刑となり,85歳に,病気で仮出所して没している。ロシア革命の起きた1917年に,帝大法科大学を卒業して大蔵省に入った賀屋興宣は,主計畑を歩んで軍の予算を担当し,若手幕僚と結びつき,45歳に,主計局長に就任,日中戦争の始まる1937年には,第1次近衛内閣の蔵相,日米開戦の年には,東条内閣の蔵相となって,軍事予算を賄い,56歳の敗戦後,A級戦犯に指定され終身刑を宣告されるも。赦免されて出所するや,自由民主党に入って,政界復帰,69歳から,連続して衆議院議員に当選し,池田内閣で法相を務めた後も,党内右派の長老として活動,83歳に,引退後も,独自の政治活動を続け,88歳で没し,また,第一次世界大戦が終わって,バブルが弾けた年に,帝大法学部の首席を我妻栄と争って卒業し,農商務省に入った岸信介は,日中戦争の始まった1937年,41歳には,満州国総務庁次長になり,東条英機ら,満州国を動かす5人"2キ3スケ"の一員となり,帰国すると,商工次官になって,45歳,小林一三商工相と対立して辞任するも,東条内閣の商工相になって,日米開戦に対応,翌年には,翼賛選挙に当選して,政治家に転身,敗戦で,A級戦犯になるも,不起訴釈放,公職追放解除とともに,政界に復帰して,自由党から衆議院に当選も,自由党を除名され,鳩山一郎を担いで,日本民主党を結成,1055年の,保守合同で,自由民主党幹事長となり,翌年の総裁選で,石橋湛山に敗れるも,翌年,石橋首相の病気辞任で首相になり,1964年,良く知られるように,国民的安保反対闘争のなか,日米安保新条約を強行採決すると,内閣総辞職,以後も,総選挙に6回連続当選し,83歳に,政界引退後も,タカ派政治家として隠然たる力を持続,91歳で,没している。
官僚に関わらない例は極めて少ないが,天保の改革の終わった年に,備中国の医者の次男に生まれ,大坂の商人で諸藩御用達の養子になった馬越恭平は,明治維新後,大阪造幣寮益田孝の知遇を得て,29歳,先収会社の創立に参加,その後設立された三井物産で,社長の益田のもと,出世を重ね,諸会社の重役にも就任,48歳に,重役の専務委員に昇進すると,52歳に,退職し,関わってきた会社の一つ,{日本麦酒}の経営に転じ,63歳には,{札幌}{大阪}との三社合同がなって設立された{大日本麦酒}の社長になって君臨,"ビール王"と呼ばれるようになり,89歳,社長在任のまま没している。また,慶応義塾を卒業し,鈴木梅四郎の勧誘で三井銀行に入った藤原銀次郎は,30歳で,三井物産に移籍,日露戦後,木材部部長兼小樽支店長になって現地赴任して,パルプに通じ,42歳,大ストライキで危機に陥っていた{王子製紙}に,専務として入るや,第一次世界大戦の好況もあって,再建に成功,製紙企業の買取合併を進め,1929年の60歳,大恐慌に際して,社長となるや,ライバル{富士製紙}の株式買占めにも成功,独占的地位を築くに至り,69歳には,会長に退いて,東条内閣の国務相,続いて,小磯内閣の軍需相になって,政府における独占資本の発言権確保するも,翌年,敗戦となり,{王子製紙}も三社に分割されたが,公職追放解除後は,各社から社賓待遇を受けて,盛んに発言,85歳には,洞爺丸台風で甚大な被害を受けた山林を,手製の駕籠に乗って視察,91歳で没し,戦後,その経済界をコントロールする経団連の重鎮になった植村甲午郎は,原敬による本格政党内閣が実現した年に,農商務省に入り,大臣秘書官として,5人の大臣に仕えた後,33歳の時,内閣に新設された資源局の調査課長になって,財界との関係を強め,日中戦争の始まる1937年,43歳で,資源局企画院調査部長となって以降,戦時下の生産力拡充計画を担当,51歳,敗戦後の処理のための日本経済連盟会常務理事となり,その解散による,経団連の創立に参画,公職追放解除後の57歳には,経団連の副会長となり,74歳,会長になって,80歳に退任するまで,長く経済界の調整に当たり,84歳に没している。その経緯をみれば,官僚による経済界支配であることは,明らかであろう。
週刊誌の嚆矢{週刊新潮}はじめ,戦後ジャーナリズムを主導,黒子に徹して,新潮社の"天皇"になった斎藤十一は,19歳の時に,父が帰依していた{ひとのみち教団}に入って,やはり,信者だった新潮社の創業者佐藤義亮に見込まれたのが縁で,入社し,倉庫係となったのが始まりで,独自の作品判断基準を身につけて,頭角を現し,単行本の編集に携わるようになると,著名な作家のもとに通ううち,31歳,敗戦で復刊した{新潮}の編集長に抜擢され,以後,活躍していくことになり,また,長く{映画之友}編集長をつとめ,{友の会}を主宰,テレビの映画批評を開拓して圧倒的支持を得た淀川長治は,映画にのめり込んで,{映画世界}のアルバイトから,五一五事件の起きた1932年,23歳で,ユナイテッド・アーチスツ大阪支社宣伝部に入社,27歳の時に,宣伝を兼ねて来日したチャプリンと会い,東京支社に転勤後,「駅馬車」の宣伝を担当して大ヒット,日米開戦で,ユナイトが解散したため,東宝宣伝部に入って,黒沢明監督と懇意になり,敗戦の36歳,セントラル映画社に入って,創刊された雑誌{スクリーン}の編集をするも,退社して,映画世界社に再入社,39歳に,{映画之友}編集長になるとともに,{友の会}を始め,57歳に,{日曜映画劇場}の解説を始めるや大評判,翌年には,{映画之友}編集長を辞めて,フリーになったのである。
第2話:社会的地位が確立するとされる36歳までに登場し,81歳過ぎまで活躍した人物
現代の平均的人生で,生涯,同じ分野型の活動を続けた人物,すなわち,登退場年齢パターンが,09:早出(中)晩退型,17:早出(後)晩退型,24:中出(前)晩退型のいずれかで,今のところ一般的な活動パターンの,登攀型,台地型,高原型,山脈型,そして,現代における一般的な活動の分野型である人物を,列挙してみる。
中世では,武家社会へ転換する大変革期に,歌壇を指導,六条家を圧倒し,和歌と書に新風を吹き込んだ藤原俊成,日本中世における水墨画の大成者で,画家として個人名が出る先駆けとなった雪舟等楊,室町期最高の大和絵作家で,最高の地位築いて土佐派を中興,「清水寺縁起絵巻」ほか多くの傑作を描いた土佐光信ら,
近世では,{豊竹座}創設し,紀海音と組んで,西の竹本・近松と競いあい,黄金時代を築いた豊竹越前少掾,日本初の経緯度入り「日本輿地路程全図」を作成出版,農民出身者としては異例の侍講になった長久保赤水,林家の塾長から昌平黌教授となり,門下から,幕末の多彩な俊秀を輩出,"言志四録"を著した佐藤一斎,幕末に合理的農業技術に関する多くの著作を成し,明治維新後に大きく評価された大蔵永常,年齢とともに画風次々展開,「富嶽三十六景」で日本を代表,「北斎漫画」の世界も開いた葛飾北斎,幼時より次々と発明,世界に優る万年時計に至り,{東芝}の祖になった田中久重ら,
近代に入ると,一気に増えて,維新に際し巨利を得,銀行を核に財閥を形成,晩年は公共的事業に貢献したが,暴漢に刺殺された安田善次郎,製茶貿易の基礎を築くとともに,新都市横浜の形成に多大の貢献をした大谷嘉兵衛,天竜川治水,磐田植林,三方原開墾,出獄人保護など,社会のために一生を捧げた金原明善,維新直後から企業設立や経済界組織形成で資本主義を先導,社会・公共事業にも広く関係した渋沢栄一,幕末に絵を学び,国事にも奔走,維新定着後は書画に専念,最後の文人画家と言われた富岡鉄斎,大阪で{朝日新聞}創刊に参加,所有権を譲り受け,東京に進出して大発展の基礎を築いた村山龍平,衆議院議員を連続25期60年,自由主義者として藩閥専制・軍国主義に抵抗し続け"憲政の神様"になった尾崎行雄,真珠養殖に取り組んで成功,鑑定の名人としても一流の折り紙がつき,"世界の真珠王"となった御木本幸吉,双子の兄松次郎と{松竹}を設立,歌舞伎界を支配した後,{東宝}と対抗して映画全盛時代を築いた大谷竹次郎,社会運動の先駆者で社会主義の啓蒙家で,学生野球の振興にも尽くしたキリスト教社会主義者安部磯雄,苦学して"日本林学の父"となる多大の業績,堅実な蓄財で"明治の億万長者"となり多大の寄付をした本多静六,日本で初めて世界的物理学者になり,土星型原子模型などで注目され,長期にわたって学術行政を推進した長岡半太郎,明治の下町風俗を描き,文学性を画面に定着させる一方,優れた随筆を遺した鏑木清方,婦人記者の先駆,夫と{婦人之友}発刊後,キリスト教に基く{自由学園}創設した羽仁もと子,都市近郊私鉄経営のため,宝塚歌劇・ターミナルデパートなど,近代娯楽を開拓した小林一三,"電力王"になるも,戦時の国家管理に反対して退去,戦後に九電力体制を発足させ"電力の鬼"になった松永安左ヱ門,中学を中退後独学で,国文法研究の基礎を確立するも,文学博士は20年後。在野で夥しい数の名著を遺した山田孝雄,民間からは稀有の法学博士号を受け,政界でも重きをなし,極東軍事裁判日本側弁護士団長も務めた鵜沢総明,90過ぎまで,日本中を自由に巡り,何でも自作した合理的自然人で,千春の父猪谷六合雄,新たな様式の創出に挑戦し続け,"青邨様式"を確立後も,肖像や花鳥画に独自の画境を開いた前田青邨,日本の造園学,造園設計,造園教育の確立を主導した上原敬二,アメリカの確かな友人として,大戦前後の日米関係,のちの米中正常化に大きな役割を果たした笠井重治,ローマ字短歌が石川啄木を触発,戦時下には膨大な「田安宗武」論,戦後は国字改革,図書館運動などに貢献した土岐善麿,アミノ酸や人工癌研究を先駆して,2度の恩賜賞を受け,佐々木研究所開設した佐々木隆興,永久磁石鋼KS鋼を発明するなど,新たな分野を開き,金属研究の祖となった本多光太郎,広島商監督で全国制覇,プロ野球誕生時にタイガース監督,廃墟広島にカープを誕生させた石本秀一,戦前はタゴールの来日などに尽力,戦後は,日本人初のソ連入りなど,国際的に大活躍した高良とみ,日本の国立公園行政で指導的役割をはたし,"国立公園の父"とよばれる田村剛,「海神丸」で登場し,精緻な観察眼とみずみずしい精神保ち,100歳で没するまで傑作を書き続けた野上弥生子,シャープ・ペンシルで成功も大震災で出直し,{シャープ}を創業し,世界的電機メーカーとなった早川徳次,ゲノム分析で独創的な業績。"種なしスイカ"で知られ,カラコルム探検隊長,冬季オリンピック団長も務めた木原均,戦前から戦後にかけ,非凡な才で次々大衆演芸事業を起こし,{吉本興業}を業界トップにした林正之助,18歳から94歳まで,三岸好太郎の妻の時期含めて,ゆうゆうと描き続けた三岸節子,アイヌ語とユーカラを本格的に紹介,アイヌ自身の著述を世に出すなど,先住民族認知に貢献した金田一京助,町工場を総合電機メーカーに発展させ,経営哲学で<敗戦>後の復興を象徴,世界的存在になった松下幸之助,盛田昭夫はじめ多くの民間企業人から慕われた物理学者淺田常三郎,優れた容姿と高い技芸で"動く浮世絵",料亭の女将から経営者も,踊りは95まで生涯現役だった武原はん,左翼演劇のリーダーとして活躍,<敗戦>直前に{俳優座}を結成,復興期の演劇をリードした千田是也,タイポグラフィーをテコに,装幀を中心に,時代をリードしたグラフィックデザイナー原弘,アール・デコスタイルで知られ,{資生堂}の企業イメージを創った日本のグラフィックデザインの先駆者山名文夫,{立石電機(オムロン)}創業し,オートメーション・システム機械で,世界的企業になった立石一真,芥川賞で文壇に特異な位置を確立,旺盛な創作力と学識で,革新的かつ密度の濃い作品を書き続けた石川淳,"大塚史学"と称される独自の史観を確し,広く"市民社会"派の人々を啓蒙したクリスチャンの経済史家大塚久雄,生涯にわたり,北海道,とくにアイヌに関する様々な歴史書を編纂し,多大な貢献をした農業経済学者高倉新一郎,グラフィックデザイナーの草分けで,<東京オリンピック>で第一人者となり,社会的地位の向上にも尽力した亀倉雄策,国際的衝撃与えた「羅生門」以降,次々話題作,"世界のクロサワ"として多大の影響を及ぼした黒沢明,戦時下に"棲み分け理論"提唱,戦後,モンキーセンター設立,探検家でもあった今西錦司,<敗戦>直後に自動車会社を設立,オートバイから出発し,世界の{ホンダ}に発展させた本田宗一郎,「東洋人の思惟方法」以降,比較思想宗教の国際的権威となり,膨大な業績を遺した中村元,<敗戦>直後に,衝撃的な「第二芸術論」ほか,作品の新評価軸を提示し,文学界に甚大な影響を及ぼした桑原武夫,中世町衆,とくに芸能を対象に"林屋史学"形成,学界のみならず市民層にも影響が及んだ林屋辰三郎,戦後の日本の論壇に広範な影響を及ぼし,“丸山政治学”として海外からも高い評価を得た丸山真男,<敗戦>後の製造業の品質管理を指導,マナスル登山や南極越冬成功の先陣も務めた西堀栄三郎らがいる。
第3話:取り組みを続けるものの,登場が遅くになってしまった人物
45歳以降に登場する人物で,一般的な組織での登場や,高齢者の節で扱った向山型でない,登退場パターンが,34:中出(後)遅退(後)型,35:中出(後)晩退型,38:遅出(前)遅退(後)型,39:遅出(前)晩退型,41:遅出(中)遅退(後)型,42:遅出(中)晩退型,44:遅出(後)晩退型,45:晩出晩退型の人物。
古代においては,藤原明衡が,藤原式家の出のため,出世の圏外にあて,藤原頼通に仕え,25歳に,文章得業生になった後も,官位が遅々として進まないなか,学問等に励み,当代一流になりながら,藤原道長没後の43歳,ようやく,対策に及第すると,45歳に,式部省内の受験生に外から答を教えたり,52歳には,文章生の試験に及第できなかった学生のために,異議の奏状を代筆するなど,公家社会衰退期の新人類ぶりを発揮,翌年,ようやく,正五位下となって,なお,諸古典の筆耕にいそしみ,63歳頃には,社会のさまざまなことを描いて諷刺する「新猿楽記」を著し,71歳になって,ようやく,文章博士になるとともに,東宮学士を兼ね,「本朝文粋」も完成,77歳に没しており,また,歌界の指導者で六条家の祖藤原顕季の孫藤原清輔は,父と不和なこともあって,遅々として出世できなかったが,歌人としての名声が高まって,46歳に,ようやく従五位上に進み,崇徳院の歌会に参加するとともに,歌学書を献上,51歳には,父が死去して,六条家を継ぎ,保元の乱後の54歳には,和歌の百科全書とも云うべき「袋草紙」を著して,歌壇の中心的存在となり,九条兼実の師範となって,御子左家の藤原俊成を凌ぐようになって,73歳に没している。その藤原俊成は,第1講,第3論,第2話の文化のデザインに記したように,その後,六条家を圧倒し,文化的に,中世の幕を開ける役割を担ったが,中世の最後を飾り,近世を開くこになるのが,同じところで取り上げた,水墨画の大成者で,画家として個人名が出る先駆けとなった雪舟等楊である。
近世では,まず,「養生訓」で有名な貝原益軒が,福岡藩主黒田氏に仕える医者の五男に生れるも,神童ぶりを発揮,18歳に,2代藩主忠之に近侍するも,短気な忠之から譴責を受け解任されてしまい,将軍家光没後の江戸に出て,さらに,学識を深めて,3代藩主光之に出仕すると,39歳には,藩儒の扱いを受けるようになり,翌年に,編纂命を受けた「黒田家譜」を,48歳に完成して献上,褒賞を受けて以降の元禄時代には,本草学を中心に,一気に多作となり,70歳に,辞職を許されて後には,「筑前国続風土記」を完成するとともに,いわゆる"益軒十訓"を書き始め,将軍綱吉の没した1709年の79歳には,猫の特徴九条も含む,本草学の代表作「大和本草」を著し,83歳,"益軒十訓"の最後となる「養生訓」を著すが,妻が死去して孤独になり,身体不調にもなって,翌年没しており,吉宗が将軍になってまもなく大坂の商人たちが学校{懐徳堂}を創ったが,その教授の長男に生まれた中井竹山は,28歳に,父が死去すると,{懐徳堂}の事務を担当するようになり,52歳,ようやく院長になるや,その興隆に努めるうち,田沼意次が失脚して登場した老中松平定信が大坂巡視の折,招かれて講義するとともに,経世策を建議,翌年には,後に,高く評価される「草茅危言」10巻にまとめて,定信に献上したが,大坂大火で{懐徳堂}が類焼,翌年には定信が引退して,幕府の援助も得られず,大幅に縮小して復興,幕府からの招聘に応じず,将来を嘱望していた長男にも先立たれ,失意のなか,74歳に没した。「東海道四谷怪談」で知られる鶴屋南北は,21歳の時,歌舞伎の見習作者になって,中村座で名が出るも,すぐに消え,27歳,森田座に再勤,以後は,長い下積み生活で,46歳に,ようやく立作者になると,49歳,河原崎座での「天竺徳兵衛韓噺」が大成功,以後,多くの役者のために,作品を書き続けていたが,56歳の時に出された法令に抵触して,一時不調の後,58歳の「お染久松色読販」が大当たり,70歳に,最高傑作「東海道四谷怪談」を書き,74歳で没しており,寛政時代に,幕府御家人の子に生まれ,前述した屋代弘賢のもとで,長く研究に励んだ栗原信充は,師が死去した翌年,48歳に成った弘賢編「古今要覧稿」の「御陵墓考全部」が評価され,以後,次々著作,70歳には,薩摩藩主島津久光の招かれて,鹿児島に赴き,その助力を得て,72歳に,「軍防令講義」(全8巻)を出版,76歳で没した。
近代に入っては,まず,別格の大矢透を挙げると,越後国蒲原で,名主の子に生まれ,18歳の時,戊辰戦争に従軍,その後,新潟師範を卒業して,諸学校に勤めるうち,文部省雇となり,52歳,国語調査委員会の補助委員になって,翌年,委員所蔵の古経巻を見るや,仮名の歴史的研究を志し,全くの独学で,59歳,「仮名遣及仮名字体沿革史料」を刊行,委員に昇格後も,万葉仮名の研究を進め,その業績で,66歳には,帝国学士院恩賜賞,さらに研究を進め,75歳には,文学博士となって,78歳に没している。学歴なく,また,齢をとってから始めたものにも関わらず,最高の扱いを受けることになった希有の例となっているが,その業績のレベルの高さはもちろん,維新後の西洋の影響下にあった自然科学と違い,文学言語型は,古来から多くの人が取り組んでいたものであることによるのだろう。
そこで,学界の人物を見て行くと,維新まもなく,長崎で,裁縫業の子に生まれた高野岩三郎は,東京帝大法科大学を卒業し,大学院に進み,社会政策学会創設に携わった後,ドイツ留学,帰国して,母校の教授となり,統計学の講座を担当,45歳から翌年にかけて,職工や労働者について,日本初の本格的な家計調査を実施,48歳に,ILOの第1回会議の労働者代表に選ばれるも,労働組合側の同意得られず,受諾を撤回し,教授も辞職して,翌年,創設された大原社会問題研究所の所長に就任,54歳に,「社会統計学史研究」第1巻を発表した頃には,日本の統計学の創始者と見なされ,その後は,労働組合や無産政党の運動指導者の補佐役となり,その合同を斡旋,74歳の敗戦後は,呼びかけ人の一人になって,結成された日本社会党の顧問となり,個人として,「日本共和国憲法私案」を発表,翌年,NHK会長となり,78歳で没しており,東京帝大天文学科を卒業し,関東大震災の起きた1923年,26歳で,欧米に留学した萩原雄祐は,帰国して,東京天文台技師となるが,戦時下で活躍できず,敗戦翌年,49歳に,東京天文台所長になると,翌年には,「天体力学の基礎」を刊行し,その2年後,乗鞍山頂にコロナ観測所を完成,続いて,大反射望遠鏡の建設に心血を注いで,安保闘争の63歳,岡山天体物理観測所を完成させ,アメリカ科学アカデミーからワトソン賞,以後,「天体力学の基礎」をもとに英文「天体力学」の編纂に傾注,77歳,全5巻を完成して朝日賞,天文学者のバイブルとなり,82歳で没した。また,モルガンに「古代社会」を苦読して民族学に興味を抱くようになっていた岡正雄は,第一次世界大戦が終わってバブルの弾けた1920年,東京帝大文学部社会学科に入学するも講義に失望,理学部の鳥居龍蔵の講義に通い,民族学の原書を渉猟,卒業直後,偶然入手したシュミットとコッパースの共著「民族学の歴史と方法」で開眼,その後,柳田国男のサポート,30歳に{民族}に処女論文を発表するが,直後に,折口信夫の論文を,柳田に無断で発表して破門され,翌年,渋沢敬二の支援を受けて,ウィーンに留学して,本格的研究を始めるも,ナチス台頭で情勢が悪化,帰国して転変するうち敗戦,アメリカニストの縁で,GHQから,ウィーンに置いてきた「古日本の文化層」5巻の独文原稿を渡され,52歳,日本民族学協会理事長になって,学界に復帰,翌年の独立回復とともに,パリの国際会議に派遣され,ウィーンも再訪,以後,国際的な活躍を続け,70歳には,日本で開催された国際人類学民族学会議連合の会長を務め,終了後,連合の名誉会長,81歳に,処女論文をベースにした「異人 その他 日本民族~文化の源流と日本国家の形成」を出版して,84歳に没ている。そして,満州事変の少し前,27歳に,東北帝大英文科を卒業した島田謹二は,フランスの比較文学研究の方法に着目し,近代日本文学への応用に取組み始め,敗戦で引揚げ,教授になった第一高等学校が,新制東大教養学部に変わり,52歳,その大学院に,比較文学比較文化専門課程が創設されて,初代主任になると,この分野の確立と後進の育成に献身,安保闘争の翌年,60歳には,停年退官になってしまうも,早速,長年の研究成果を次々と発表し始め,69歳に,日本エッセイストクラブ賞,76歳に,学士院賞,89歳に,菊池寛賞を受賞,92歳で没しており,東京帝大国史学科で,黒板勝美の指導を受けた中村栄孝は,24歳に,中世の日朝関係の卒論で卒業するとともに,朝鮮総督府朝鮮史編修会嘱託となり,京城に赴任し,満州事変後も,取り組み続けていたが,43歳,幹事になったところで,敗戦帰国,46歳に,文学部が創設された名大教授となり,国史学を担当,64歳に停年退官後,68歳,大著「日朝関係史の研究」で,学士院恩賜賞,75歳,辞職して帰郷,82歳に没し,日中戦争の始まった1937年に,慶大文学部英文科を卒業した井筒俊彦は,イスラムやギリシャ思想,アラビア語はじめ中東諸語やサンスクリット語などの研究習得に専念,敗戦後,慶大の助教授,教授となり,46歳,文学博士号,50歳の,「コーラン」の厳密な原典訳は良く知られ,石油ショック後の61歳,イラン王立研究所も教授に就任,イスラム神智学研究・コーラン学における世界的な権威となり,79歳に,没している。
政財界では,維新直前に,但馬国豊岡藩士の子に生まれた古島一雄が,杉浦重剛に師事し,ジャーナリストを務めながら,日露戦争までには,頭山満ら玄洋社の右翼浪人とも知り合い,戦後の46歳,浪人会から推されて,衆議院議員となり,以後,連続当選する間,心酔する犬養毅のの懐刀を務めながら,孫文らの中国革命を支援,1924年の護憲三派連合の成立を斡旋,翌年の60歳,政革合同問題でも黒幕をつとめ,合同なるや政界引退を表明,敗戦の80歳,幣原喜重郎からの入閣要請を固辞し,翌年には,公職追放の鳩山一郎の後任に推されるも,吉田茂を推薦して受けず,以後,"吉田茂の師範役"と目され,87歳で没しており,横浜の地主で代々醸造業の長男に生まれた平沼亮三は,スポーツ万能に育ち,日清戦争の起きた1994年の15歳,慶応普通部の野球部選手となり,慶大理財科を卒業後,県会議員や多くの会社の社長や役員を務めながら,34歳には,大日本体育協会評議員となって,スポーツ振興に尽力し始め,翌年には,慶大野球部の渡米団長,原敬首相が暗殺された1921年の翌43歳に,横浜市議会議長,46歳には,体協副会長,日本陸上連盟会長,以後,その他の競技団体の会長,53歳には,ロサンゼルスオリンピックの日本選手団団長,続く,57歳にも,ベルリンオリンピックの団長を務めて,国際陸上競技連盟会長に推薦され,岸清一とともに,招致に尽力した,東京オリンピックは幻に終わったが,敗戦の66歳,体協会長に就任し,IOC委員長も兼務,翌年,国民体育大会を創始するも,公職追放で辞任,解除後,横浜商工会議所会頭に就任し,72歳,横浜市長に選出され,80歳,在職のまま,没している。また,新幹線を実現させた国鉄総裁十河信二は,愛媛県新居浜で生まれ,中学校時代から,教師に反抗的なリーダーで,成績も良くなかったが,日露戦争が終わった年の21歳,どうにか,東京帝大法科大学政治科に入り,卒業して,農商務省に決まっていたが,後藤新平に会って感銘,鉄道院に入り,後藤総裁に直訴して,早くも導入されたIBMの計算機で,給与や厚生問題を研究,40歳で,経理局長になるも,復興局事件で突然逮捕され,依願免官,45歳,無罪となり,翌年,満鉄理事に就任,提出した案が実らず,退任して,興中公司社長に就任するも,日中戦争が始まって,華北開発構想が水泡に帰し,54歳に退任,戦局の進む中,陸軍に批判的意見を述べ,倒閣運動にも関与して,憲兵隊の取り調べを受け,難を避けて帰郷,敗戦を迎え,公職追放となって,隠遁的生活を送っていたところ,保守合同なった年,71歳に,懇請されて,国鉄総裁に就任,島秀雄を技師長に迎え,新幹線構想を立て,その実現に尽力,国会で追及されて辞任に追い込まれ,日本交通協会会長になった翌年,80歳に開通して,勲一等瑞宝章,97歳で没している。そして,明治天皇の死去した翌年,23歳に,明治専門学校(のちの九州工業大学)を卒業して,{三井物産}門司支店に入社した田代茂樹は,機械畑を歩み。38歳に,ロンドン支店勤務となるや,水を得た魚のように活躍,二二六事件の起きた,46歳には,{東レ}出向となり,敗戦で,55歳に社長に就任すると,その人間的魅力で,公職追放になるも嘆願で解除されて会長に復帰するという"財界の美談",戦時下の立ち遅れを回復すべく,アメリカのデュポン社と技術提携,68歳には,{帝人}とともに,イギリスのICI社から技術導入,テトロンとして商品化するなど,黄金時代を築き,80歳に退任,91歳で没した。
その他,日露戦争が終わった1905年に,国語学の開拓者上田万年の娘に生まれた円地文子は,21歳の時,雑誌{歌舞伎}に一幕ものを発表して,戯曲作家活動を始め,小山内薫に師事,築地小劇場で「晩春騒夜」が上演され,処女作になるも,小山内が急逝,小説家に転じて,31歳に,{人民文庫}同人になり,多くの作家を知り,次々と発表するも認められず,1945年の40歳には,空襲で,蔵書一切を焼失,翌年には,子宮癌の手術を受けるなど低迷,48歳に発表した「ひもじい月日」が,翌年,女流文学賞となって,ようやく認められて以降は,人間の執念や老醜を主題に多くの傑作を書き続け,67歳から翌年にかけての現代語訳「源氏物語」は,与謝野源氏,谷崎源氏に続くものとなり,80歳,女性2人目の文化勲章となって,翌年に没し,父の勧める静岡県立浜松工業図案科に入学,18歳に卒業した中根金作は,{日本形染}意匠部に就職するも,生涯の仕事ではないと,父の友人の子の造園家の仕事に興味を持ち,東京高等造園学校に入学,25歳,京都への卒業旅行で名庭園を見学して決定的影響を受け,卒業とともに,植木職人に弟子入りして修業,茶道にも従事して視界が開け,翌年,京都府園芸技手になったところ,召集,敗戦後の30歳,京都府文化財保護課記念物係長に任命され,庭園以外の日本文化の粋に触れるとともに,各界一流人との交流も始まり,古庭園保存五カ年計画を立て,国の補助も得て,諸庭園を修理し,研究するうち,34歳,肺結核を発病,大手術と療養で長期欠勤,37歳,ようやく社会復帰すると,初めてのまとまった仕事「城南宮楽水苑」作庭という好運,43歳に完成させると,48歳に,依願退職,翌年,中根庭園研究所を設立,52歳には,日本庭園の保存と修理によって,日本造園学会賞を受け,大阪芸術工科大学教授となり,現在,最高の庭園とされる,島根県安来の「足立美術館庭園」が着工,以後,国際的に活動し,多くの受賞,70歳に,学長になって以降も作庭を続け,"昭和の小堀遠州"と称えられ,78歳に没している。
この論TOPへ
ページTOPへ
第3論:さまざまな壁の乗越え方
第1話:変事を乗り越える
原則として,ここまでに取り上げた人物は,除く。1:社会全体にかかる変事
活動パターンが,7:前山後山型の人物のうち,1:途中で,時代激変,大災害,大事件等,社会全体にかかる外的条件を乗り越えて蘇生,場合もよっては利用して飛躍した人物。
古代では,度々,大きな政変があり,それを乗り越えたような人物を取り上げたいところであるが,リストにある人物の多くは,政変を起こした当事者が多く,孝謙(称徳)天皇に重用され,弟清麻呂に宇佐八幡神託の勅使を代行させ,弟とともに,配流も召還され,桓武天皇の時代まで働いた和気広虫,高齢になって<前九年合戦>を平定,武家の棟梁として東国源氏の地位を確立した源頼義あたりしか出て来ない。
中世でも,それが始まる公家から武家への政権交代,中ほどの,いわゆる建武の中興と南北朝分裂,そして中世を終わらせる戦国時代突入の契機となった応仁の乱などの大事件があるが,リストにある人物の多くは,やはり,それらを起こした当事者であり,文化的人物で,すでに取り上げた慈円,一条兼良のほかは,源氏一斉蜂起以降,頼朝の側近として仕え,頼朝死後の危機乗越え,鎌倉幕府の確立に貢献した結城朝光,霜月騒動連座し,籠居出家も復帰蘇生,好学で金沢文庫成立に寄与した北条顕時,室町幕府創設に活躍するも,観応の擾乱で敗走,隠棲後復帰し,関東管領上杉氏の基礎を築いた上杉憲顕くらいである。7:前山後山と同じようなもので,前後の間が長く,山の形が尖頭型に近くなる8:初山終山型には,細川勝元と室町幕府内の勢力を二分して抗争,家督譲るも,」<応仁の乱>を引き起こし,戦い半ばで病没した山名持豊(宗全)がいる。。
近世では,新たに変わり身が早い処世の名人で,本能寺の変を乗り越え,信長,秀吉,家康の三者いずれからも信任され,加賀藩の祖になった前田利家はさておき,関ヶ原の戦という激変を乗り越えた,現実的に最も厳しい,武将たち,例えば,秀吉側近の名将で,家康に与して肥後一国を支配,優れた治政の間も秀吉の恩顧を忘れなかった加藤清正,秀吉から戦さを絶賛されて柳川城主に,関ヶ原西軍ながら,誠実さで,初代柳川藩主になった立花宗茂,秀吉から家康への政権交替を凌いで,筑前黒田藩の祖となり,中世から近世へ橋渡しをした黒田長政,稀有壮大で進取に富み,"独眼竜"と恐れられ,秀吉,家康に屈服しつつも,東北南部に覇権を得た伊達政宗,関ケ原の戦西軍で,常陸から転封されるも,家康の信頼を得て,久保田藩政の基礎をつくった佐竹義宣,真田昌幸の長男で,<関ヶ原の戦>で東軍に加わって,松代藩主となり,その基礎を固めた真田信之らを挙げておきたい。8:初山終山型には,豊臣秀吉の天下統一に貢献して阿波一国を与えられ,関ヶ原西軍で剃髪も,子の早世で,徳島藩政も担った蜂須賀家政,西洋近代砲術を修得して開祖となり,守旧派の策謀で投獄されるも,ペリー来航で釈放後,幕府の軍事近代化に貢献した高島秋帆も加えられる。
近代の維新を乗り越えた人物として,幕臣として箱館戦争まで主導しながら,敗れるも人材惜しまれ出獄,新政府で多面的な活躍をし,現在でも有名な榎本武揚はじめ,幕末きっての財政通で,藩の殖産政策も,藩論一変で蟄居,王政復古で,新政府の金融政策に関与した由利公正,将軍家茂の最後の脈をとり,戊辰戦争敗北も実力評価され,維新直後に陸軍軍医制度を確立した松本良順,自ら新聞を発行して開化期の風俗を面白可笑しく描き,維新直後の文学空白期を埋めた仮名垣魯文,維新で戯画が諷刺と拘留され,以後異端児として飛躍,独自の画風が西洋からも高く評価された河鍋暁斎,幕末の海軍測量士官で,戊辰戦争に敗れ謹慎するも蘇生,明治前期の印刷・製図家になり,大きな役割を果たした岩橋教章,維新で失脚も実力認められ,大砲などの武器の整備の近代化に貢献,"陸軍造兵界の象徴"になった大築尚志,幕臣として<戊辰戦争>を戦い,敗れた士族子弟救済に尽力,キリスト者として青年教育に生涯をかけた江原素六,戊辰戦争で河井継之助に非戦論を建言,廃墟となった長岡で,学校設置に賭けた"米百俵の計"の小林虎三郎,廃仏毀釈に抵抗,国民教化政策を瓦解させ信教の自由を獲得,海外伝道や監獄教誨にも尽力した島地黙雷,維新で仕事失うも復帰,能楽を復興発展させ,"明治の三名人"になった宝生九郎(知栄)ほか,植物学の伊藤圭介,地域農民利益確保に尽力した古橋暉皃,復古思想に影響与えた矢野玄道,報徳思想で箱根の観光を振興した福住正兄,洋画開拓の川上冬崖,陸軍幼年学校長になった武田成章,英学転換の立役者手塚律蔵,農事改良の中村直三,剣術復興させた榊原鍵吉,化学近代化の宇都宮三郎,"円覚寺中興の祖"今北洪川らを,挙げることができる。
さらに,敗戦を乗り越えた人物としては,国家主義者ながら,<敗戦>後,大日本愛国党党首として,街頭に立ち続け,ユニークな存在となった赤尾敏,敗戦で海外店全て失い石油扱いも不可,解禁されるや,国際石油資本・政府・GHQと闘って大会社にした出光佐三,権力に対抗し続け,多くの支持を得たが,アメリカ亡命を余儀なくされ,<敗戦>後に復帰した大山郁夫,ライトの弟子として来日,多くの作品を残し,戦時帰米も,敗戦即来日し,日本人建築家に大きな影響を与えたアントニン・レーモンド,ガウディはじめ知られざる建築家を日本に紹介,敗戦受洗で飛躍した建築家今井兼次,辛亥革命後の中国で底辺の子らの自立を助け,<敗戦>で全て失うと,妻郁子と桜美林学園創立した清水安三,<戦時>下に新官僚の支持を得,無位無冠を通し,敗戦後も逮捕免れ,政財官界指導者に影響を及ぼした安岡正篤,軍国主義の進む中,探偵小説を確立,戦時隠棲し,敗戦で蘇生,後進の育成にも尽力した江戸川乱歩,長崎で女学校を設立,原爆投下による壊滅的状況から再生し,"被爆者の母"になった江角ヤス,妻かしことともに,戦前からの映画の洋画輸入,敗戦で公職追放も解除で蘇生,邦画国際化に貢献した川喜多長政,戦前に批判的リアリズムの名作,大陸で10年の空白後,第二の映画人生で名作「飢餓海峡」の映画監督内田吐夢,アメリカ議会図書館日本部長でスパイ的活動,日米開戦で送還され,敗戦後は,アメリカ思想啓蒙宣伝に努めた坂西志保,性の遍歴の末,ソ連に逃亡,<敗戦>後も現地に留まり,演劇を学び直して演出家としても成功した岡田嘉子,空襲で版焼失,右眼失明も乗越え,30年以上かけて,中国の「康煕字典」をしのぐ「大漢和辞典」を完成させた諸橋轍次,パリで演劇を学び,{文学座}を創設・指導,大政翼賛会で公職追放も蘇生,知識人全体をリードした岸田国士,ソ連も追われ,亡命したメキシコで巨大な足跡"演劇の栄光の時代",帰国せずに没した佐野碩(セキ=サノ),戦時下に航空機を開発研究,敗戦で全面禁止,部分解除されると,国産{YS11}の設計・人力飛行機で名を成した木村秀政,戦前すでに著名で,原爆被災,原爆症の恐怖と闘いながら,密度高い記録文学作品を遺した大田洋子,第二次大戦下,キュリー夫人の指導で,フランスの博士号,敗戦で帰国もすぐ渡仏し,研究続けた湯浅年子らが挙げられる。
そのほか,母子救済の徳永恕,労働組合連合トップ松岡駒吉,ブリヂストンの石橋正二郎,伊藤忠の2代忠兵衛,東急の五島慶太,廃娼運動の久布白落実,労働省の初代婦人少年局長山川菊栄,"アラビア太郎"山下太郎,世界大百科事典の林達夫,リベラリスト安倍能成,ロシア文学者米川正夫,雪印の黒沢酉蔵,部落解放の朝田善之助,宣伝広告の先駆者太田英茂,都市社会学の奥井復太郎,「鞍馬天狗」の大仏次郎,新版画の川瀬巴水,{松竹}の城戸四郎,プロレタリア文学の蔵原惟人,青年団の後藤文夫,{読売}の正力松太郎,ドレメの杉野芳子,{草月流}の勅使河原蒼風,唱歌遊戯の戸倉ハル,共産党作家中野重治,詩人西脇順三郎,プロレタリア作家平林たい子,画家藤田嗣治,婦人運動の山高しげり,家庭小説の吉屋信子,民主社会主義の蝋山政道,"アラカン"嵐寛寿郎,"蛙"の草野心平,部落解放の阪本清一郎,"レビユーの王様"白井鉄造,ベトナム独立運動を支援した松下光廣,映画事業の森岩雄,政界黒幕矢次一夫,栄養問題を啓蒙の香川綾,「夕鶴」のおつう山本安英,社会党委員長浅沼稲次郎,社会党の重鎮加藤勘十,「古寺巡礼」の和辻哲郎,落語家三遊亭円生(6代),不屈の思想家大塚金之助,{丸井}の青井忠治,日本浪漫派亀井勝一郎,{前進座}の河原崎長十郎と中村翫右衛門,写真家木村伊兵衛,{松竹家庭劇}の渋谷天外,歌手東海林太郎と藤山一郎,民事法の最高権威末川博,"うたごえ運動"の関鑑子,作家高見順,"記録映画の鬼"林田重男,美術館普及に尽力した土方定一,流行作家舟橋聖一,熱血弁護士正木ひろし,プロ野球の水原茂,版画家小野忠重,部落解放の北原泰作,{日本野鳥の会}の中西悟堂に,{山階鳥類研究所}の山階芳麿,反ファシズムの羽仁五郎,前衛芸術の岡本太郎,政界黒幕笹川良一,漫画家杉浦茂,博覧会プランナー鍛治藤信,反戦の作曲家吉田隆子,民衆史の田村栄太郎,特殊撮影の円谷英二,実践教育の東井義雄,東大総長矢内原忠雄らに止まらない,多くの人物がいる。
さらに,8:初山終山型をみると,ハリウッドでデビューした日本人初の国際的スターで,移民排斥で退去後長期転変,<敗戦>後の晩年にも名演の早川雪洲,社会主義関係事件殆どを弁護,奇行や奇文で知られ,満州事変から敗戦までは雑誌発行で凌ぎ,敗戦後の晩年三鷹事件で活躍した山崎今朝弥,戦前「人物評論」で挫折,弾圧から敗戦復興後,「無思想人宣言」を発表,辛辣な評論や流行語を発し,"マスコミ大将"になった大宅壮一,<第一次世界大戦>後に国際協調外交が軍部に阻まれ,満州事変で退去,<敗戦>直後に首相になると天皇制保持に努めた幣原喜重郎,日本共産党創設に参加,戦時下を非転向で通すも,<敗戦>後,マッカーサーに追放され,北京で没した徳田球一,若くして地位を確立,現実主義的評論で高く評価され,戦時から独立回復までは散発的に過ごし,晩年を松川裁判の批判に捧げた広津和郎,アイガー東山稜初登攀に成功して力を世界に示し,戦時から敗戦,公職追放解除まで長期に外国登山できず,晩年マナスル初登頂で登山ブームを起こした槇有恒,戦前に”歌う映画スター”第1号として松竹時代劇の二本柱となり,戦時退場,敗戦後“奇跡のカムバック”の高田浩吉,傑作「のらくろ」連載で一世を風靡,日米開戦で中断,弟子養成に努め,彼らの活躍で最晩年に人気復活,リバイバルで続編を描いた田河水泡,選手としてオリンピック銅メダリスト,現役引退し戦時敗戦後,誘致した東京大会を成功に導き,近代スポーツのあり方に警鐘を鳴らし続けた大島鎌吉,満鉄調査部で中国の鉄道を指導,日中戦争から敗戦後隠遁中,要請されて,新幹線実現の中心人物となった十河信二,リトアニア領事代理時代にナチスを逃れるユダヤ人にビザを発行,敗戦で辞職,30年後,難民に再会し"日本のシンドラー"になった杉原千畝,満州開発から戦時下の経済統制,敗戦戦犯容疑・公職追放解除後,自民党結成で<安保闘争>強行採決に至る岸信介,戦時下に"兵隊作家"として華々しく活躍,<敗戦>後は"戦犯作家"の烙印,晩年復活するも自殺した火野葦平,GHQ禁止を超えて原爆歌集「ざんげ」秘密出版,晩年公開されて,原水爆禁止を訴え続けるも,後遺症の癌で没した正田篠枝らを,加えることができる。
2:個人と社会の関係による変事
前項のような社会的大事件でない,時代変化,人間関係等,現代に普通な定年退職に当たるような,社会と個人の関係によるものを乗り越えたり,利用して飛躍した人物
古代では,良弁の弟子で,東大寺造営で絶頂直後に,早良原親王問題で悲劇となるが,遷都で晩年復帰した実忠,入唐で得た新知識で朝儀の整備,左遷された地方行政に功績挙げて復帰,菅家の基礎を築いた菅原清公,配流も赦免され,正確な判決で,その法解釈は長く範とされた讃岐永直,白河院に排除され籠居となるも,鳥羽院で復帰し,摂関家の復活に努めた藤原忠実らがおり,7:前山後山と同じようなもので,前後の間が長く,山の形が尖頭型に近くなる8:初山終山型には,軍事を担当しながら,"抵抗の人生"を送り,仲麻呂覇権から桓武天皇即位まで雌伏することになった「万葉集」の編纂者大伴家持,兄兼通と壮絶な権力争いを勝ち抜き,雌伏10年後,朝廷における摂政関白の地位を確立させた藤原兼家,破門以後長く迫害受けて"なべかむり日親"になるも,大赦後,本法寺復興,京都に日蓮宗の教勢を一気に拡大させた日親らがいる。。
中世では,愚直で廉恥を重んじる坂東武者の典型で,頼朝不審買い逐電,武士を捨て念仏僧になった熊谷直実,後鳥羽院と決裂も承久の乱で終わり,和歌を革新して,歌聖として崇められた藤原定家,斬新奔放な歌風で"京極派"形成も,政争当事者として,佐渡配流されるも深化,召還され蘇生した京極為兼,その為兼と対立,子公衡の死去で再任すると,為兼を失脚させ,"文保の御和談"に持ち込んだ関東申次西園寺実兼,初の管領として幼将軍義満を補佐,幕政を左右するも政争に敗れ,分国経営に専念後,復帰した細川頼之,幕府方にあって九州平定を成し遂げ,九州探題解任後も長寿を保ち,冷泉歌学に多大の貢献した今川了俊,将軍義教と関東公方持氏の間で翻弄され,持氏自害で出家も幕府から再任命された上杉憲実,世阿弥とその子観世元雅を圧倒,将軍に忌避され沈滞も,将軍交替で蘇生した舞の達人音阿弥,足利義政の"御台所"として非凡な能力を発揮,義政政治放棄で代役を務めた日野富子,管領の抗争で追放され,将軍再任した唯一の例になった流浪の将軍足利義稙ら,
近世では,家康が危険視した外様大名で,将軍家光圧力で隠居も後継の子急死で蘇生し,百万石を盤石にした前田利常,事件で一時逼塞も蘇生し,芭蕉に並ぶ評価を得て"西の巨匠"になった上島鬼貫,狩野派の水準を超えるも,幇間的行動で三宅島流罪,その間も,そして,大赦で復帰後も優雅に活動した英一蝶,豊後節で大当たりも禁止となり,常磐津節を創始,劇舞踊流行の存続に寄与した常磐津文字太夫,借金破棄と公共事業で餓死者ゼロも,恨み買って謹慎になると,秀吉の朝鮮出兵と赤穂浪士討入りを痛快批判した乳井貢,処罰で中断も復帰蘇生,国学者としても狂歌師としても一流だった石川雅望(宿屋飯盛),異学の禁で仕官の道絶たれ,世の無用者を自認して詩酒に沈湎しながら,大立者として聳立した亀田鵬斎,寛政の改革で蟄居処分,オランダ通詞吉雄耕牛配慮で蘇生,現行の天文物理用語,"鎖国"まで訳語を創った蘭学者志筑忠雄,黒羽藩主だったが,重役ら反感で隠居して研究者に転換,多くの書物を編集・著作した大関増業,独創に富み,オランダ銃もとにした気砲を発明,気砲禁止も解除で,さらに次々と発明した国友藤兵衛,藩主徳川斉昭謹慎に従い蟄居,解禁で蘇生も,<安政の大地震>で圧死した後期水戸学唱導者藤田東湖ら,また,第1論第1話の2:向山型のなかの,石川丈山,浦上玉堂,河合寸翁,中川五郎治らも,見ようによっては,ここに入れられ,江戸幕府の最後を象徴する人物として,たたき上げで大出世,左遷されるも復帰飛躍,日露和親条約を実現し,江戸開城を聞いて自殺した川路聖謨も,形式的には,近代であるが,こちらに入れておく。8:初山終山型をみると,幕府弱体化で長期沈滞後民間に場求め,狩野派の発展の基礎をつくり,後世,神格化された狩野元信,小大名ながら,気宇壮大で,殖産政策に手腕を発揮,秀吉に琉球求め,家康隠退で,最後には,自ら南蛮貿易を指揮した亀井茲矩,若年の「花彙」で日本の植物学を世界に知らしめ,長期に門人教育し,最後に幕命で,江戸時代最大の博物誌「本草綱目啓蒙」を刊行した小野蘭山,「江戸繁昌記」で流行作家となるも,風紀を乱すと出版差し止め,長期放浪後,復活して,「新潟繁昌記」を著した寺門静軒がいる。
近代では,現代日本の最大の企業{トヨタ}の祖で,誰もが名を知っている豊田佐吉が,大政奉還の年,遠江の貧農に生れ,父に従って大工仕事に出て,新聞・雑誌を耽読するようになり,内閣の発足した1885年,18歳の時,目にした専売特許条例の公布に刺激されて,発明を志し,徴兵検査の抽選に外れたことで,名古屋の織物工場の職工になって,小型織機の製作に打ち込み始めると,23歳には,早くも,木製人力織機を発明して,特許を得,上京して,浅草に機屋を開業も,結婚すると,閉鎖帰郷,愛想をつかした妻がすぐ離婚後,糸繰返機を発明して特許を得,再婚した30歳,豊田式木製動力織機を完成し,名古屋で工場製作を始め,翌々年に,特許を得ると,三井物産と共同で会社を設立するが,経糸送出装置を発明した翌35歳,会社を辞めて,豊田商会を設立,その後も特許をとり,豊田商会を発展させた豊田織機での販売を試みるが,いずれも成功せず,43歳,ついに辞任し,外遊に出る。まさに,厄年の挫折であったが,帰国すると,45歳,豊田自動職布工場を創設,織機の製造に専念するとともに,販売は三井物産に一任,51歳には,豊田紡織を設立して社長になり,57歳に,25年前に特許を得た自動織機を完成,帝国発明協会に100万円を寄付,生涯に獲得した特許は100以上,外国でも50以上に達し,養嗣子の利三郎に自動織機の事業を,長男の喜一郎に自動車製造の夢を託して,63歳に没している。
その他,新時代に対応しようとするも,新劇に敗れ復古で蘇生,”劇聖”と呼ばれるまでになった市川団十郎(9代),幕末活動みとめられ,維新政府の農業指導者になり,西欧化に抵抗し辞任するも,出張講演で蘇生した船津伝次平,初めてパリ画壇に認められた日本人で,滞欧作品積んだ船の沈没にもめげず,黒田清輝を世に出した山本芳翠,私淑した市川団十郎から一度は破門されるも,"女団十郎"といわれるほどの名役者になった市川九女八,王子製紙の技術改善に貢献後,ストライキで辞任,起業して"製紙王",他事業にも進出し財閥になった大川平三郎,東北地方の自由民権運動を指導,福島事件で入獄も,出獄後,{自由党}結成に参画し,衆院議長に至った河野広中,日本の近代鉱物学の創始者で,八幡製鉄所建設のため中断,晩年には科学的な書誌学も開拓した和田維四郎,政界に進出するも落選で蘇生,ベストセラー「二千五百年史」はじめ在野を代表する名著を遺した竹越与三郎,少年期に日本を飛び出し,第一次大戦で敵国になって逮捕も,戦争終結で,再び活躍を続けたサーカス芸人沢田豊,日露戦争終で失職するも,ロシア革命で蘇生したロシア諜報活動の石光真清,自由主義福祉国家論先駆者で,転変の後,地位を回復し,大正デモクラシーも先導した福田徳三,原敬首相暗殺で辞任し,満州事変で蘇生し,"内田焦土外交"で名を残した内田康哉,隠遁的生き方で,戦時下も密かに書き続け,敗戦直後に歓迎されるも,自由を全うした永井荷風,日本の超心理学のパイオニアで,東大除名後も在野で蘇生,"念写の福来"として世界的になった福来友吉,自伝的小説で認められ,野性的な人間を描いて飛躍,大震災後しばらく沈潜後,完成させた室生犀星,早くから箏曲と舞踊を結びつけた先覚者で,関東大震災で烏有に帰すも蘇生した箏曲家荻原浜子,猶存社解散で離れ,新日本国民同盟結成で蘇生した大アジア主義思想家鹿子木員信,異色の詩で大家扱い,日本初の創作民謡集後詩壇から離れるも,民謡・童謡流行で再開,第一人者になった野口雨情,自著出版のため{平凡社}を創設,倒産から戦時公職追放も,解除で蘇生し,「大百科事典」を刊行した下中弥三郎,新舞踊運動の先頭に立ち,家元抗議も,藤蔭流を興し,日本舞踊家の地位を確立した藤蔭静樹,チャンバラ映画で絶大な人気を得るも,トーキー化で凋落したが,演技力で復活し伝説化した阪東妻三郎,多くの有名監督の名作を手掛け,大映破綻も,フリーになり,独自の世界を開いた撮影技術者宮川一夫,柳宗悦の妻で,夫の性格に翻弄されながらもその挑戦を助け,戦時中断も敗戦で蘇生し,芸を築き上げた柳兼子,バッシングでスランプに陥り,15年後蘇生,フランス音楽を浸透させ,多くの門下生を輩出した安川加壽子,人気まもなく,40半ばに癌で失った妻との書簡集「愛のかたみ」が絶版に追い込まれ,80近くに自殺した田宮虎彦,四面楚歌で,大蔵省を退官も,池田内閣ブレーンとなり,ケインズ理論で高度経済成長リードした下村治らが,挙げられる。
さらに,8:初山終山型をみると,{国民之友}{国民新聞}で一世を風靡,変節して長期低迷,日米開戦で復活し,戦時体制に協力,<敗戦>後文化勲章を返上した徳富蘇峰,四角恋愛で<大杉栄傷害事件>を起こし入獄・離婚,自活するうち敗戦で蘇生した神近市子,18歳で"浅草オペラ"で人気も,浅草オペラ消滅で退場,声失う危機を克服,懐メロブームで復活し,70歳のレコードがヒット,90歳まで歌い続けた田谷力三,戦前に全盛期迎えるも追放され,敗戦後に復帰した日本オープンで優勝し,伝説化したプロゴルファー戸田藤一郎がいる。
3:個人的変事
破産,別離,ノイローゼ等,個人レベルのものを乗り越えたり,自らの意志で飛躍した人物。。8:初山終山型の方に,際立つ人物が多いので,そちらから入ることにする。
近世では,享保の大飢饉の2年後,大坂曽根崎で,私生児に生まれた上田秋成が,生母に捨てられ,4歳の時,痘瘡に罹って手指が奇形になり,幼時に懐徳堂で学んで後は遊蕩児,その間に俳諧を覚えて俳人として活躍,26歳に結婚後,浮世草子を刊行,国学者と白話小説家に出会って,才能が開花,34歳に,一気に「雨月物語」を書き上げるも,火災に遭って,家財を失い,路頭に迷った後,42歳,町医者になるとともに刊行,田沼意次の失脚した1786年の52歳,本居宣長の皇国絶対化思想を激しく非難して大論争,翌年,これに嫌気し,健康も害して,にわかに廃業し隠遁,59歳,妻子を連れて上京後は,知己を頼って転居・漂泊,64歳には,妻を失い,衝撃で右眼失明も,名医と出会って回復,歌論や古典論考を著作,刊行するうち,75歳,自らの死を予感,門人邸内で,「春雨物語」を書きつつ,苦難の生涯を終えており,前山後山型では,為永春水が,火災で店失い友人ら離反も,苦心して,人情本で一世を風靡も,<天保の改革>で処罰され憤死した。家産失い国学専念で新世界を開き,加藤千蔭と並ぶ江戸派歌人,儒学否定の本居宣長を批判するほどになった村田春海は,向山型になっているが,見ようによっては,ここにも入る。
大塩平八郎の乱後の,近代に入ると,歌川広重が,長期に乱作でマンネリ化したのを脱し,「東海道五十三次」「名所江戸百景」などの傑作を描き,"今小町"と言われた才女後藤逸(女)は,夫死去後,病身の父ほか一家を支え,父死から母死まで帰郷後,再び活動,最近「いつ女歌集」が発見されている。平田篤胤に入門した宮負定雄は,名主継ぐも向かずと辞め,門人活動に専念するが,篤胤続いて父死で別世界に転換し,維新直後に横浜の基盤整備事業をして高島町に名を遺した高島嘉右衛門が,その後,長期隠棲して易を研究,"高島易断"の開祖になっている。イタリア人彫刻家と結婚したラグーザ玉は,夫に従ってパレルモに行き,日本初の女流洋画家となり,夫の衰えを長期に支え,夫死で帰国し,脚光を浴びて最期の花となり,女権拡張の先駆者福田英子は,離婚再婚死別など長期離脱後,活動を再開したが,ついに弾圧で中断させられ,若い時の詩「荒城の月」が滝廉太郎作曲の名曲となって,その名が永遠のものとなった土井晩翠は,その後,詩人として低迷,晩年に,学究として再評価されている。
続いて登場する,島崎藤村は,維新まもなく,中山道の馬篭宿で,本陣を務めた庄屋で国学者でもあった島崎正樹の子に生まれるも,家は没落,14歳の時,山林解放に身を捧げる父は,上手く行かないでいた父が,精神異常を来して座敷牢で死去するという衝撃,受洗して,西洋文学の影響を受け,19歳には,{女学雑誌}に寄稿し始め,2年後には,生涯の先達と仰ぐ北村透谷らと{文学界}を創刊,そこに発表した詩をまとめ,25歳に,「若菜集」を刊行するや名声,以後,詩集を出すうち,小説に転じ,苦闘の末,日露戦争の終わった翌年の34歳,「破戒」を自費出版して,作家の地位も確立,その後の作品で,日本の自然主義の方向を決定づけるが,39歳,「千曲川のスケッチ」を連載中,妻を失うと,家事手伝いに来た姪と過ちを犯し,非難を避けて渡仏するも,帰国するや,関係再開,その経緯を作品にし,兄とも別れるが,社会的には,評価されて危機を乗り越え,その後,関係の始まった加藤静子と,56歳に再婚すると,「夜明け前」の執筆を開始,63歳に完成するとともに,執筆を通じて,東西交渉への認識を深め,日本ペンクラブ初代会長に就任したが,71歳,「東方の門」連載開始まもなく,脳溢血のため没している。
その後には,夫強制で断筆も,子の大学入学期に家を出て再開した歌人石上露子,懸賞小説で華々しく登場,優れた才能を発揮するも,不倫で海外に逃亡し帰国するも書けず,中国へ渡って最後の仕事をした田村俊子,「鳴門秘帖」で大衆文学の草創期を飾り,妻と別居から再婚,戦時敗戦と長期模索後,「新平家物語」「私太平記」で国民文学を完成させた吉川英治,幸田露伴の妹で,姉の幸田延とともに,わが国バイオリン界の草分けとなるが,ともにバッシングに晒され,結婚・子育てで低迷も,教授を辞め飛躍した安藤幸,女性の自立扱う名作「伸子」書き,{共産党}の宮本顕治と結婚,獄中の夫を支えながら創作,長期弾圧され,敗戦で蘇生も早世した宮本百合子,戦前に探偵小説挿絵で人気絶頂も姿消し,戦後,社会運動に奔走,子の労を手伝ううち復活し,伝説化竹中英太郎,{文芸春秋}同人に文送るや掲載され,大戦から離婚後しばらく低調も,芥川賞から,芸術院恩賜賞まで,香り高い作品を書き続けた中里恒子,聾唖のアマチュア天才写真家で,長期に,ろうあ福祉活動専念後,晩年に,全国的・世界的反響を呼んだ井上孝治,実力派で2度レコード大賞後,難病と闘いながら活動,復帰コンサート直後に没したシャンソン歌手岸洋子らがいる。
前山後山型では,仙台藩士として戊辰戦争で徹底抗戦,渡米し34年,キリスト者として帰国,独自の国づくりを訴えた新井奥遂,幼くして名古屋西川流の完成者となり,大病を乗り越えて,東京・大阪に広めた西川嘉義,明治初期,油絵技法によって日本画を描き,勝海舟の死で転変も,新境地を開き,独特の画風を示した川村清雄,文部行政で先駆者となるが,病で退官し,余生を吃音矯正に捧げた伊沢修二,野に在って,重い神経衰弱も奇跡的に回復蘇生,西洋科学を背景に特異な国粋主義を提唱した杉浦重剛,妻死,再婚で蘇生,説教講演旅行で各地に信奉者を得た真宗大谷派僧暁烏敏,自然主義で第一人者となり,弟子を愛して,作家危機も乗り越え,心境小説で復活,戦時下に反骨示すも挫折した徳田秋声,貧窮苦難のなか,放火全焼も蘇生,生涯独力で,弱者救済の慈善事業を行った岩田きぬ,松旭斎天一の愛人から出発,天一死後は,自ら一座結成し,豪華な演出と豊かな演目で一世を風靡した松旭斎天勝,多様な人間模様を傑出した心理描写,賭博で検挙も蘇生,志賀直哉から"小説家の小さん"と言われた里見弴,画家として名を成し,結核療養後は随筆短歌に展開,高齢になって失明後は,短歌とエッセイに全力を注ぎ,101歳で没した曾宮一念,幼時にハンセン病,自ら病院に入って俳句を知り,脚の切断,失明越えて創作,淡々と綴る自伝も遺した玉木愛子,子役から芸術座経て新派に移り,敗戦前後長期に不調も蘇生,"八重子十種"の名演を遺した水谷八重子,戦時体制下,{理化学研究所}所長を務め,長男検挙も乗り越え,理研コンツェルンを形成させた大河内正敏,アメリカ奇術界で"グレート"の称号を得,<敗戦>で帰国,狭心症で中断も回復し,天覧の栄誉を得,後進を指導した石田天海,アメリカで学位,日本初の造園設計事務所を開き,敗戦も病に倒れ療養後蘇生,国際交流にも貢献した戸野琢磨,デビュー後,敗戦前後胃潰瘍で長い雌伏,<敗戦>後いきなり,画壇の寵児的存在となった林武,幼くして人気,夫浮気で離婚し,生活のため長期退場,男装で登場・復帰し伝説化した天才琵琶師鶴田錦史,<大正デモクラシー>期に中心作家となり,精神変調で中断も蘇生,大きな反響を呼んだ宇野浩二,近代女性俳人の先駆けで,敗戦前後中断虚脱も蘇生,長男とともに若手育成した竹下しづの女,夫と{築地座}創設,夫の戦死で隠遁,12年ぶりに復帰の{文学座}最初の大女優になるも,突然退場した田村秋子,"女性映画"の巨匠で,戦時から敗戦にかえての長期スランプも脱し,"ヌーベル・バーグ"の監督たちから信奉された溝口健二,日本最初の医療ソーシャルワーカーで,結婚死別と戦時沈滞も,敗戦後飛躍した浅賀ふさ,戦前から活動し国外で名声,突然視力失うも蘇生し,"日本のサッチモ""不死鳥のトランペッター"南里文雄,昭和時代の光と影,公私の問題と敗戦で貧窮も生き抜き,中国史の基礎研究に多大の功績を挙げた濱口重國,小学校を中退し,プロレタリア作家として登場,敗戦離婚後,筆名を変えて,優れた作品を書き続けた佐多稲子,肺結核で永く制作を中断,敗戦直後に発表した「エウロペ」が衝撃,戦後の幕を明けた日本画家杉山寧,軍国主義時代に登場,<敗戦>直後に死去した妻「リツ子」,情事の顛末「火宅の人」を描いて没した檀一雄,美貌と歌で松竹の黄金期を築き,心労奇病で歌手止めるも回復,晩年はJRフルムーン広告が話題にたった高峰三枝子,戦時下に報道写真の理念と方法を紹介,敗戦,ドイツ人女流写真家と離婚後も,自ら企画して{岩波写真文庫}を遺した名取洋之助,天才肌で「明解国語辞典」で辞書を革新,共著者に軽視され性格激変後,最も現代的な「三省堂国語辞典」を編纂した見坊豪紀,歌舞伎の新演出で旋風を起こし,破産で私生活混乱も蘇生,映画では猥褻論議,前衛的な活動を続けた武智鉄二,平凡な教師生活を全うしながら,内外危機克服し,前衛書道の先頭を走り続けた井上有一,戦後逸早く渡仏し,世界的評価を得,交通事故で重傷も復活した画家で版画家菅井汲,渋谷天外の愛とムチに育てられ,借金破産で解雇も,天外が倒れて復帰,喜劇俳優第一人者となった藤山寛美,精神の不調かかえ,4回も芥川賞候補なりながら挫折,自殺に至ったが,近年再評価が進んでいる佐藤泰志らがいる。
苦闘の末,装束無しの「安宅」が話題で,観世流シテ方初の女性師範津村紀美子も,結核病臥乗越え蘇生していることから,向山型にしてあるものの,ここに入れても良いが,次の,ハンディの女性のところで,大きく扱うべきであろう。
第2話:ハンディを乗越える
1:最も広汎で根深いとされる女性差別
近代の女性解放については,第一講。新興宗教教祖には女性が多いが避ける。(1)男性を超える政治力,あるいは,男性を動かして支配に関わった女性
古代では,天武天皇の后で,その死後,遺志を継ぎ,律令国家の基盤を確立した持統天皇,皇族外初の皇后で,聖武天皇に働き掛け,仏教に基づく慈悲の施策を実行,国分寺や大仏等も実現した光明皇后を挙げるのに,異議はないだろう。とすれば,持統天皇の信頼を得,再婚した藤原不比等の昇進を支援,夫没後も娘光明子の立后を実現した橘三千代に触れない訳にはいかない。橘三千代は,県犬養連に生まれ,壬申の乱後,氏族子女の朝廷出仕の詔が出たのに応じて,16歳頃,後宮に出仕するや,皇后(のちの持統天皇)の信頼を得,翌年には,美努王に嫁して,翌18歳,草壁皇子の子として誕生した軽皇子の乳母になる一方,翌年には,自らも,美努王の子(のちの橘諸兄)を出産,27歳には,前年に即位した持統天皇の典侍に昇格,この間,表舞台に登場し,藤原氏トップになった不比等と結びつき,美努王と離別,32歳には,軽皇子が文武天皇として即位して,乳母の頂点御母となり,不比等の娘宮子を入内させ,36歳,宮子に首皇子が誕生するのに合わせるかのように,自らは,不比等の娘光明子(のちの光明皇后)を出産,翌年に持統天皇が死去すると,夫とともに,文武天皇を支えて覇権を握って行き,43歳の,元明天皇即位の宴で,橘宿禰の氏姓を賜り,50歳には,後宮を統轄する尚侍になるに至る。55歳の時,この間,廟堂首班になった夫不比等が死去して,長屋王が首班になり,59歳,元明の後を継いでいた元正天皇の譲位で,首皇子が聖武天皇として即位すると,光明子は夫人となり,長屋王と藤原氏の関係が悪化,62歳,光明子が出産した男児を,異例の立太子するも,翌年に夭折,その翌年には,不比等の遺児らと謀って,長屋王を自尽に追い込み,光明子を,非皇族初の皇后とするに至ると,後顧の憂いを避けるべく,藤原氏の財産で,皇后が慈善事業をするように措置し,不比等死去後もそのままになっていた職田,位田,封戸すべてを返還して,68歳に没している。
中世,すなわち公家政権に代わる武家政権を開いたのが,源頼朝であることはもちろんであるが,それを定着させた頼朝の妻北条政子は,まず,1199年,42歳の時,頼朝が死去した際に,名演説で,御家人の動揺を抑え,直後に,権力を狙った外戚比企氏を,後継の長男頼家が裁くのを止めて,御家人の合議制によることとして,独裁を止め,頼家が重病になると,全国の地頭職を,次男実朝と頼家の長男一幡に分与する案を出し,これに反対する比企氏を,父時政とともに滅ぼし,一幡も殺害し,頼家を幽閉,実朝を将軍にするとともに,時政を執権にして,北条氏が実権を握るようにするも,翌年,時政が女婿を将軍に立てようとするや,父時政を伊豆に隠退させ,56歳には,和田合戦を乗り切って,北条氏の覇権を確立,62歳に,実朝が,頼家の遺児公暁に暗殺されるや,摂関家から将軍を迎え,自ら,実質上の将軍となって。"尼将軍"と呼ばれ,1221年の64歳,後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げる,最大の危機に,御家人たちを説得,子の泰時をトップに,都に攻め上らせて勝利,3年後,弟義時が死去して,泰時が執権になると,泰時の継母伊賀氏は,実子を執権に,女婿を将軍にしようと画策,これも抑えて,執権政治を安泰ならしめ,68歳で,没している。頼朝時代からのアドバイザー大江広元や弟義時の支えがあったとはいえ,軸になって主導したのが,政子であったことは明らかであり,まさに,日本史上最強の女性支配者であったが,現代においてもなお,政子を悪女としたり,主導したのが,義時であるように記述しているものが多いように,女性差別の最たるものになっている。そして,中世を終わらせることのなる応仁の乱勃発を招いた将軍足利義政の室日野富子は,"御台所"として非凡な能力を発揮,夫が政治放棄すると,自ら,将軍役になって差配,男性を超えた女性の一人であるにも関わらず,やはり,悪女のように言われることが多い。まさに,典型的な男性の時代であった中世の政治は,女性によって始まり,最後も,女性が締めたのである。将軍足利義政の乳母でとなり,義政に愛され権力を振るった今参局が,正室入った日野富子側の讒言で自刃に至ったほか,後白河法皇の寵愛を背景に,政治力を発揮したが,後鳥羽院政で失墜した高階栄子(丹後局),父から膨大な所領を譲渡されて権勢振るうも,後鳥羽院政の前に失速した宣陽門院(覲子),後伏見上皇の女御で,幕府がひれ伏し,女性初かつ天皇家出自でない初の治天の君の存在になった広義門院(寧子)ら,さまざまな形で権力を振るう女性も多く,さらに,本願寺5代法主の孫で,加賀本泉寺を開いたいとこの如乗と結婚した勝如(尼)は,32歳の時,如乗が死去したため,北陸の浄土真宗の寺々を差配するようになり,53歳には,討滅に乗り出してきた国守富樫政親と対決した門徒を激励すべく,4つの寺坊を駆けまわって,政親の軍勢を追い返し,福光城主を自刃させると,政親が籠った野々市城を囲むよう,15万余の門徒を集める指導的役割をし,合戦の後,落城させ,政親を自刃に至らしめるほどの女傑ぶりを示して,67歳に没している。
近世には,豊臣秀吉の正室で,実子を得ずも,秀吉の正式な代理人として扱われ,公武から慕われた北政所おね,前田利家の正室で,結婚当初は信長覇権期,その後は,秀吉覇権期に金沢で栄華も,秀吉に続いて,夫が没して危機に陥り,自ら家康の人質になって,前田家の安泰を図った芳春院(まつ),徳川家康の側室で,才智にたけて,大奥を統制し,政治的にも家康・秀忠をサポートした阿茶局,武将山内一豊の正室で,様々な状況に,的確な判断と処理をして,夫の出世に貢献した見性院(千代),島津家久の正室で,九州討伐で人質のうえ,正室ながら別居になるが,世嗣決定権利保持して意地を示した島津亀寿,徳川家光の乳母で,家康に直訴して家光の将軍継嗣に成功,大奥を牛耳り,無冠無位で参内もした春日局,3代将軍徳川家光の側室で,子が5代将軍綱吉になり,「生類憐令」など,国政にまで影響を及ぼした桂昌院(宗子),夫の死で事実上の種子島島主となり,島民の生活向上に尽くした。日の丸を創案したとも言われる松寿院ら,将軍ほか,時の,さまざまなレベルの権力者の近くにあって,政治力を発揮した女性には事欠かないが,言うなれば,陰の女性でしかないのも否定できない。そこで取り上げる,近世を象徴する豪商で,戦前の最強財閥,現代においてもなお大きな存在である三井グループの祖三井高利の母三井殊法は,秀吉が全国統一を達成した1590年に,伊勢国の豪商の娘に生れ,12歳の時,織田信長に滅ぼされた近江の武士三井高安の長男で,伊勢松坂に居を構えた高俊に嫁ぎ,32歳の,末子高利まで,4男4女を産みながら,商売に疎い夫が,日夜連俳や遊芸にうつつを抜かす間,聡明で優れた商才で,家業の質屋や酒・味噌醸造の商いを順調に伸ばすとともに,子どもたちに,商人として生きる道を教え,娘たちを,次々と有力な商家に嫁がせ,周りの豪商たちに倣って,37歳の時,19歳になった長男俊次を,江戸に出して小間物店を開かせ,監視を兼ねて,三男重俊に手伝わせ,43歳に,夫が死去すると,45歳には,13歳になった高利も,江戸の長男の店の手伝いに出す一方,自らは,神仏への信仰と慈悲心をもって,使用人らの面倒を見るうち,59歳に,三男が死去して,長男に煙たがられるようになった高利が帰郷すると,早速嫁を迎えさせる。そして,金融業を始めた高利は,やがて,自らの子や店員を次々,長兄の店に送り込んで商人教育,83歳に,長男が死去して,後を継いだ高利が,三井越後屋を始め,一気に発展させていくのを見ながら,86歳に没しており,まさに,三井の実質的な祖であった。
近代に入ると,幕末の長崎で製茶海外輸出を開拓して巨富を得,維新の志士らも支援したが,横浜開港で凋落した大浦慶,父の関係で朝廷側の隠密となり,尼姿で各地情報収集,父没後も謀議活動,維新実現後まもなく没した歌人中山三屋,家族が次々と死去して出家,偶然出会った陶芸で人生開き,維新の志士から敬愛された大田垣蓮月,幕末志士の庇護者になり,動乱に巻き込まれた野村望東(尼),尊攘運動を組織し志士を庇護,岩倉具視と志士との連絡役などをつとめた松尾多勢子,男装で討幕運動,夫と死別・離婚の後,大陸で活動,戦争の悲惨さを見て{愛国婦人会}を創立した奥村五百子ら,多くの女性が志士を支えたことで,維新が実現したことを痛感させられるが,その一人,野村望東(尼)の従妹で,維新後,開塾し,のちに,右翼の重鎮となる頭山満が入塾し,塾生の多くが内乱に関与することになる高場乱は,博多近郊で,眼科医の次女に生れ,男として育てられ,兄に従って漢学塾に通ううち,兄が秋月藩医になったため,15歳の時,父に勧められ,婿を迎えるも,頼りない男だったため,即離縁,以後,父を手伝い,生涯を学問にかけるべく,独身を決意,19歳に,父が中風で倒れると,眼科医を継ぐ一方,亀井南冥とその子に学び,亀井門三女傑と言われ,ペリー来航後の24歳に,父が死去すると,翌年には,漢学塾を開いて,青少年の教育にあたり,尊攘論を鼓吹,やがて,従姉の野村望東(尼)を訪ね,彼女のもとに集まる志士らと交流,望東(尼)が死去した翌年の36歳,明治維新となり,火災で家が焼けたのを機に,福岡藩の薬用人参畑の傍に移って,"人参畑の先生"と人気,41歳の時に,後に右翼の巨頭として隠然たる勢力を持つことになる頭山満が入塾し,翌年の佐賀の乱には,塾生数人が駆けつけ,45歳の,西南戦争では,塾生がこぞって西郷隆盛に味方,西郷の自刃後,荷担した嫌疑で逮捕されるも釈放され,翌年には,頭山らが開いた塾(のちの玄洋社)の最初の師に迎えられ,49歳に,塾が閉鎖された後は,眼科医として余生を送りながら,自由民権運動には反対し,優れた弟子たちが早世したり,決起して処刑されるのを憂い,58歳に,その一人が,大隈重信にテロを仕掛けて自殺したことに止めを刺されたのか,翌年,病床に臥し,一切の治療を拒み,弟子たちに看取られながら没している。蒙古女学校顧問となり,日露開戦直前の諜報任務を遂行した"蒙古平原の女忍者"河原操子,前述の,三井の娘に生まれ,維新に際し婚家のために立ち上り,女性解放・教育にも尽力した"一代の女傑"広岡浅子も,加えておきたい。
(2)女性ならではの生き方で,男性とは別の独自の分野,あるいは,男性と対等だった人物
古代では,「枕草子」の清少納言,「源氏物語」の紫式部をはじめとする,いわゆる王朝女流文学作家たちと,そのパトロネージュとなり,摂関家栄華の極から衰退まで,長い人生を送った上東門院(彰子)は良く知られているが,それ以前にも,日本史上,最も古く記録された女官で,歌舞の才で采女として出仕し,廉謹貞潔で典侍まで出世した飯高諸高,孝謙(称徳)天皇に重用され,弟清麻呂に宇佐八幡宮神託の勅使を代行させた和気広虫,それ以後には,中古三十六歌仙の1人で,大江匡衡の妻としても大きな役割,「栄花物語」の作者にも擬せられる赤染衛門のような人物がいたが,典型的男性社会となった中世では,藤原為家の室となって女あるじぶり示し,夫の死後は相続問題で鎌倉に下り,「十六夜日記」を遺した阿仏尼や,鎌倉幕府執権北条時宗の妻で,東慶寺を開創し,"駆込み寺"の祖となった覚山志道(尼)くらいしか思いつかない。
近世に入ると,俳人の世界で,5歳時の俳句で世人驚かし,夫と北村季吟らに学んで創作続け,夫死去後は,尼僧としても存在感を示した田捨女,理知的で平俗な作風で名声を得,人柄を端的に示す句'朝顔に釣瓶とられてもらひ水'を遺した加賀千代,琴士として栄誉をきわめ,当時の女性として比類のない旅行家で,華やかで多彩な一生を送った田上菊舎(尼),江戸時代後期に,生涯に8冊という当時としては驚異的な数の句集・撰集を残した榎本星布尼,加舎白雄の門下だった夫と死別後,小林一茶・松窓乙二と句を交わした素月,夫と離縁後に句作をはじめ,宗匠にまでなった禾月,夫死後の家業と育児による心労を脱すべく,俳句を始めて一流にまでなり,多くの俳友と交流した市原多代女と,男性と同等,それ以上の活躍をした女性が多数見られ,俳句が,和歌とは異なる新たな世界を開いたことが分かる。その他では,関ヶ原の戦前後を飾った女性芸能者で,"かぶき踊り"を創始し,忽然と消えるも,歌舞伎の祖とみなされる特異な存在の出雲阿国のほか,文武をかねそなえ,文芸の才が愛されて諸侯が招聘した井上通女,儒学者大高坂芝山の妻で,越後高田藩主からの要請で,女訓書「唐錦」6部13巻を書き上げた大高坂維佐子,農民ながら,貴族から歌才を愛でられて交流,"伊豆の袖子"として"加賀の千代"と並称された菊池袖子らも挙げられよう。
そして,近代に入ると,幕末から維新にかけては,頼山陽との交際で知られ,生涯嫁がず,絵筆一本で家族を養い,自由人としての生き方を全うした平田玉薀,同じく,頼山陽と結婚できず一生独身を通し,漢詩や南画で,一流の才能を発揮して全国に知られた蘭斎の長女江馬細香,若くして「伊勢物語」の語句,古今・後撰・拾遺の詠風を蒐集分類編纂,最晩年に藩主の命で「歌集」を編纂した岩上登波子,幕末の動乱期にあって,生涯の大半を遊歴の中に過ごし,女流三傑の一人と謳われた原采蘋,そして,幕末に,女性ながら評判の儒者となり,維新後も,衰えるところがなかった篠田雲鳳がおり,産業の近代化に対応するように,偶然から久留米絣創始者になった織姫井上伝,久留米に行き絣を知るや改良に乗り出し,久留米縞織を創始,地域指導もして一大産業へ誘導した小川トク,玉繭から糸に繰る革命的方法を考案,工場経営の革新・共同販売・購入などによって,三遠地方製糸の始祖になった小渕志ち,紡績工場設立し,嫁のウメとともに{大同毛織}の開祖とされる栗原イネ,夫と"いぶし飼い"創案し,夫没後,伝習所を開設した養蚕指導者永井いとらが現れる。
次に,もっぱら,女性教育に関わる人物,生涯女子教育に専念,画家としても一家を成し,独身を通した跡見花蹊,歌塾{萩の舎}を開き,樋口一葉はじめ女流俊秀輩出した中島歌子,7つにして最初の派遣女子留学生,女子教育に目覚めて奔走し,女子英学塾(津田塾大学)を創設した津田梅子,宮中女官出身で,良妻賢母型の女子教育につとめ,{実践女学校}創設し,愛国婦人会長にもなった下田歌子,日本YWCA創設に挺身後,恵泉女学園を創設,独自の教科を取り入れ,女子教育界に新生面を開いた河井道,女子の実学教育をめざして,商業学校を設立,発展させた嘉悦孝,わが国女子体育教育の先達井口阿くり,体操教員検定に女性として初めて合格,体操選手の名門{藤村学園}を創り上げた藤村トヨ,生涯"唱歌遊戯"創作,戦時中,学校でのダンス廃止論を,堂々と自論を主張して退けた戸倉ハル,新渡戸稲造の要請で東京女子大学創立責任者となり,学長になると,左翼学生を弾圧から守った安井てつ,日本女子大の第1回生として,創設者成瀬仁蔵のもと,女子大学教育の確立につとめ校長になった井上秀,長崎で女学校を設立,原爆投下による壊滅的状況から再生し,"被爆者の母"になった江角ヤス,女性の生涯学習から始め,全ての人間に広げた場{東京コミュニティカレッジ}を設立した小泉多希子らが輩出,そのなかで,(3)男社会への挑戦にもつながる人物として,羽仁もと子は,維新まもなく,青森県で,旧八戸藩士の娘に生れ,帝国憲法が発布された1889年,16歳に上京,府立第一高女に入学し,受洗して,2年後に卒業,東京高等師範に入れず,愛読していた{女学雑誌}発行者の巌本善治に訴えて,彼が始めた学校明治女学校高等科に月謝免除で進学,雑誌編集も手伝うも,翌年の夏休みに帰郷するや,女学校教師となり,結婚して関西に移住も,即離婚して,再上京,次の項に出てくるわが国最初の女医養成機関創立者吉岡弥生宅に寄寓,小学校教師などするも,書くことへの渇望著しく。25歳,職業欄で,報知新聞の校正係入用とあるのを見るや,男子のみのところを無理押しして受験すると合格,翌年には,自発的に書いた記事を社主に褒められ,婦人記者の先駆になるが,28歳,同僚になった羽仁吉一との職場結婚が認められず,退職,内外出版協会の経営者で教育家山県悌三郎に触発されて,30歳に,夫婦共同で,生活雑誌{家庭之友}を創刊,4号の禁酒美談が大反響となり,翌年には,独自の家計簿を創案して出版,その2年後には,主婦日記も発刊して部数を伸ばしたが,内外出版協会との関係が悪化,35歳に,{家庭之友}を手放し,継承発展させた{婦人之友}に,以後,没するまで巻頭言を描き続けるほど,全力を傾けるうち,新教育運動に呼応して,48歳には。キリスト教的自由主義に基づく,自由・自治の女子教育の学校{自由学園}を創立,ライトの弟子による校舎,文部省令によらない生活中心教育は,大正デモクラシーの象徴となり,{婦人之友}の読者を組織して,57歳に,{全国友の会}に発展させ,予約販売制を断行,発行部数は倍増,62歳には,{自由学園}男子部も設置,戦時下を凌ぎ,敗戦後の76歳には,新制大学に相当する最高学部を設置,82歳に,夫が急逝すると,その翌年の{婦人之友}巻頭言「たましいの微笑」を最後に,84歳で没している。
そして,近代を象徴するように,飛躍した活動分野型で,女性こそが適している福祉や保健,医療というより看護に,爆発的に多数の人物が登場する。早い順に記せば,<戊辰戦争><磐梯山噴火><日清戦争>とことあるごとに,孤児等の救済,中絶の悪弊阻止に努めた瓜生岩,芸者から愛人経て,受洗,伝道に奔走しながら,石井十次の事業に協力し"岡山孤児院の母"になった炭谷小梅,わが国最初の感化事業創始者で,自らは失敗したものの,先駆的であり,後世に大きな影響を及ぼした池上雪枝,西洋産婆一号で,養成所も開設した助産婦笹川ミス,キリスト教信仰を背景に,生涯を看護婦養成に尽くした大関和,知的障害があった長女を孤女学院に預けた縁で,石井亮一と再婚,以後,滝野川学園経営に生涯をかけた石井筆子,キリスト教伝道活動するうち啓示受け,須磨海岸に自殺防止の大看板立て,救済施設も整備した城ノブ,貧児のために{二葉幼稚園}を開設,幼児教育・託児所・セツルメント活動を先駆した野口幽香,貧窮苦難のなか,生涯独力で,弱者救済の慈善事業を行った岩田きぬ,夫象吉と{愛染園}核に家庭地域改善に尽力するも,夫死と空襲壊滅で,心労死した富田ヱイ,日本の看護婦を先駆・代表する生涯を送り,世界初のナイチンゲール記章受章者にもなった萩原タケ,松沢病院を世界屈指のものにし,"松沢の母"と呼ばれる精神科看護の先駆者石橋ハヤ,アメリカで排日運動下,在留邦人世話しながら勉学,太平洋戦争では海軍病院船看護婦長になった牧田きせ,早くから栄養問題を啓蒙,<敗戦>後,基礎食品群を提唱,長寿社会化への道を開いた香川綾,日本最初の医療ソーシャルワーカー浅賀ふさ,老舗洋菓子店{泉屋}の創業者で,身障者や脳性まひ児に関心をよせ,社会奉仕活動に力を注いだ泉園子,体験記「小島の春」はベストセラーになったが,早世した救ライ活動家小川正子,新潟県にあって,保育のあり方を追究し,全国に影響を及ぼした根岸草笛,保育事業に40年間携わり,敗戦後の保育界の指導者であった秋田美子,財閥の娘で外交官の妻だったが,<敗戦>後,混血戦争孤児のための施設を開設,救済に尽力した澤田美喜,地上戦の悲劇とアメリカ占領下,戦争未亡人を皮切りに,福祉問題に後半生をかけた沖縄の島マス,無私の献身で"蟻の街のマリア"と人々から慕われたが,過労死した北原怜子,自閉症児は治癒不可能という世界的学説を覆し,"生活療法"を唱えて実践した北原キヨ,草創期の障害者職業リハビリ研究の第一人者で,わが国の障害者福祉の推進に貢献した小島蓉子,夫とともに,重度障害者の自立を目ざして,地域に開かれた施設を運営,母のように慕われた田中壽美子らである。
とくに,女性教育の項で挙げるべきでもあり,そこで特記した羽仁もと子が若かりし頃寄寓した,わが国最初の女医養成機関(後の東京女子医大)を創立した吉岡弥生は,廃藩置県の年,静岡県で,漢方医の後妻の長女に生れ,女医になろうと,18歳に上京,医術開業前後期試験に合格して,一旦郷里で開業した後,24歳,再び上京,ドイツ語を学ぶべく入った至誠学院の院長と結婚,26歳には,至誠医院を開設,夫の糖尿病を発見すると,学院の方は閉鎖し,29歳に,東京女医学校を創設して校長になり,37歳,第一回生が卒業すると,医院を病院にするとともに,専門学校昇格を申請,明治天皇が没した1912年,41歳に,東京女子医学専門学校に昇格,46歳には,第一回生が卒業,49歳には,無試験で医師資格を勝ち取り,日本女医会会長になる。2年後に夫が死去し,その翌年の関東大震災で焼失した至誠病院を,移転新築して院長となり,以後,さまざまな組織の長や役員を務め,日中戦争の始まった1937年の66歳には,内閣教育審議会委員に就任,その後も,要職について,74歳の敗戦後,公職追放となり,81歳の解除後,医専の後身東京女子医大の学頭になり,88歳に没したが,最近,騒動が絶えないのを見るのは,残念なことである。
最後に,社会が豊かになってきたことで,まず,女性こそが求める,美容・服飾の分野では,美容師・総合美容先駆して繁昌,啓蒙活動に努めた遠藤波津子,洋裁学校と洋裁店を開設し,長期にわたって,服飾デザイン界を主導した山脇敏子,丸ビルに美容院開業し,初のマネキンクラブなど,美容界向上発展に貢献した山野千枝子,日本初のOLとなった後,{ドレスメーカー女学院}を創設,服飾デザインの発展に生涯をかけた杉野芳子,"お茶の間洋裁""ニューきもの"など草分け的存在で,皇室御用達になった服飾デザイナー田中千代,美容学校設立を皮切りに,化粧品や美容器具の販売まで多角的な経営で,山野美容帝国にした山野愛子,日本で初めて美容を総合的に指導するチャーム・スクールを開校,その後も革新的に活動した大関早苗らが,そして,広く文化を見渡せば,無敵の女流武芸者として名声を得,諸女子校で教授,薙刀術の世界をリードし続けた園部秀雄,圧倒的な人気を得,女義太夫界の頂点に立った豊竹呂昇,ロシア留学女性1号で,ニコライ堂助手以降,日本各地の正教会のイコン全てを制作した山下りん,「みだれ髪」で衝撃的なデビュー後,女性解放をはじめ社会問題でも積極的に活動した与謝野晶子,日露戦争出征家族の気持ち歌った長詩「お百度詣」で,与謝野晶子の「君死に給ふこと勿れ」と並称される大塚楠緒子,川上音二郎の芝居に夢中になり,芸妓止めて結婚,稀有な体験し,死別後もユニークに生きた川上貞奴,帝劇女優養成所の第一期生として,川上貞奴が切り拓いた道を広げ,近代女優史に大きな足跡を遺した森律子,劇作家第一人者になると,{女人芸術}創刊して多くの女性を支えたが,<日中戦争始>で一変してしまった長谷川時雨,喜多六平太の妻で,結婚で中断するも,再開後女性初の五段になった囲碁棋士喜多文子,真摯に"新しい女"を生きて新劇女優となり,一世を風靡,共に夢を求めた島村抱月の後を追い自殺した松井須磨子,東京新宿{中村屋}の女主人で,夫とともに芸術家を支援し,<大正デモクラシー>を代表するサロンにした相馬黒光,「蝶々夫人」を当り役に国際的に活躍し,日本のオペラ歌手の可能性を内外に強く印象づけた三浦環,松旭斎天一の愛人から出発,豪華な演出と豊かな演目で一世を風靡し,波乱の人生を送った奇術師松旭斎天勝,韓国木甫で三千人もの孤児を育ててオモニと慕われ,日韓両国の懸け橋となった田内千鶴子,戦時下に翻訳始めた「赤毛のアン」が出版されるや熱狂的ファンで,シリーズ化した村岡花子,敗戦直後から石油ショックまで「サザエさん」を連載,時代を画す国民的キャラクターになった長谷川町子,正名の遺産阿寒湖の湖畔に移住し,山林の原始美を守りながら,観光振興につとめた"阿寒の母"前田光子といったところであろうか。
(3)男性社会への挑戦
古代,中世には,(1)で挙げた男性以上の女性の支配者はいるものの,庶民の世界では,見当たらず,近世になってようやく,野中兼山の娘で,父の尊厳回復を胸に生涯孤高,谷秦山が"詩文小町の妙,経術大家の風"と激賞した野中婉や,漢詩・連歌にすぐれ,歴史物語・紀行文など集中的に著作するも,本居宣長の批判に激昂し激減した荒木田麗など,それらしい例がみられ,幕末に,近代を予告するように現れた,仙台藩医で経世思想家の工藤平助の第一子只野真葛は,母も古典に造詣深く,祖母に寵愛されて,幼時から,国文,和歌に秀でるが,開明的な父ですら,女は学問しなくてよいというような世間を知って,早くも8歳には,"女の本"になろうと志し,翌年の明和の大火後の被災者を見て"経世済民"を志すようになり,田沼意次の失脚で,父が表舞台から退場,父が勝手に決めた結婚もすぐ破綻,29歳には,母が死去して,家事すべてが身にかかり,父が後妻を迎えると,没落した工藤家の再興を図るべく,34歳,仙台藩の江戸番頭只野氏の後妻と再婚,先妻の子らの待つ仙台屋敷に定住し,文筆に開眼,37歳には,父が膨大な借金を遺して死去,長弟は夭折していて,次弟源四郎が後を継ぎ,遺族が,父の親友大槻玄沢の世話になるなか,自らを(真の)葛と号して内面化,嗣子が江戸に赴いて話相手がいなくなると孤独感,望郷の念が高まり,亡父の夢を見るなど,思いつめるうち,42歳,物の道理を直覚する"抜け上がり"を体験,唯一の理解者だった源四郎まで死去して,工藤家も乗っ取られて憤怒も高まるなか,母の思い出を妹に伝えるべく,「むかしばなし」を書き始めるが,49歳には夫が江戸で急死の報,末妹も死去,膨大なものとなって完成した「むかしばなし」を妹に送るも,妹はまもなく出家,すべての身内を失い,兄弟七人のことを「七種のたとへ」書いた後には,健康を害して執筆が困難になって,死をも願うほどになるなか,夢で,突然,仏の啓示を受け,54歳に,一気に,際立って開明的な「独考」を書き上げ,出版しようと序文を書いて,56歳,全く縁のなかった滝沢馬琴に添削・出版を依頼,怒った馬琴に,非礼を詫び,それまどの著作も送って文通するうち,厳しい批判の書「独考論」と絶交状が送られ,翌57歳,馬琴に礼状と礼物を贈り,馬琴からの礼状に返礼の書簡を送って以後,世に知られないまま,62歳に没したが,没後に,強烈な印象を忘れられない馬琴が,同好の士の集まりで発表,それが「真葛のおうな」として掲載され,「独考論」の最後に,工藤氏の願いで執筆したと書いて,後世に残ることになったというから,馬琴もまた,真剣に対応したといえよう。
近代に入って,一気に高まる女性解放運動については,第1講の活動の分野型でまとめて扱っており,それらを超えるようにみえる,青春を男女同権運動に捧げ,中島信行と自由結婚,ウーマンリブの先駆けとなった岸田俊子と,"新しい女"の中でも際立って特異な人生を送り,"仏教界のスター"から,作家として華開くも早世した岡本かの子を挙げるにとどめ,ここでは,個人的に,男性差別に挑戦した人物を取り上げることにする。
まず,医者の世界で,女医第一号荻野吟子は,明治維新の年の17歳,熊谷の名主に嫁いで,品行の悪い夫から淋病をうつされた上,離縁され,順天堂病院に入院して,男子学生に身をさらす屈辱に,女医になろうと上京,家族親族が反対するなか,姉だけに励まされ,24歳,開設された東京女子師範学校に入学,28歳には,優秀な成績で卒業し,陸軍軍医の石黒忠悳の口ききで,私立医学校に入って,31歳に修了したが,内務省の医術開業試験受験を,前例がないと何度も拒否されるが,粘り強く交渉するうち,全国からの請願と,幕末の蘭医で維新後「衛生」の語を考案し,医務官僚になった長与専斎らの努力で,33歳,大改正された前記試験を受験して,唯一人合格,翌年には,後期試験も合格し,女性では,初の医籍登録者となり,ただちに開業して盛況となるが,翌年には海老名弾正から受洗,14も年下の牧師と再婚し,開墾と伝道のために北海道に渡った夫の招きを受け,43歳,東京での名誉や地位を擲って,北海道に渡ったが,医者になるまでの苦労の大きさや,長与専斎のように,女性のために努力した男性のいることを,改めて意識させられる。その他,女性の入学認めぬ本郷済生学舎を熱意で突破し,医師免許取得して開業した高橋瑞子,勝気で日本初の女ドクトルとなり,満州病院を繁盛させるなど稀に見る事業家的手腕を発揮した宇良田タダ子,早熟の天才で,医者試験と東大選科とも女性嚆矢,東京女子専門学校を設立直後,夭折した木村秀子,渡米し,わが国最初の女子医科大学生でM.D.となるも,活躍の機会に恵まれなかった岡見京子らがいる。
次に学者の世界で,日本初の女性博士になった植物学者保井コノは,1881年の明治14年の政変の前年,香川県の廻船問屋の娘に生まれ,本好きの母のもと,父から福沢諭吉の「学問のすゝめ」を与えられるなどして育ち,高等小学校は常にトップで,香川師範学校も1番で合格したどころか,東京女子師範学校に創設された理科にも1番で入学,22歳に卒業して,岐阜県立高女教諭となり,翌年,高女用の物理の教科書を書くも,女性に書けるはずがないと,文部省は検定を出さず,25歳,東京女子師範学校に創設された研究科に唯一人入学すると,動物学雑誌に,女性学者初の論文を発表,翌年には,植物学(細胞)の研究に入り,27歳,母校の助教授になって,植物学雑誌に発表した論文が,東京帝大農学部三宅驥一教授の目に留まって,指導を受け始め,31歳,三宅教授の勧めで,国際的植物専門雑誌に,日本女性として初めて論文を発表,早速,ドイツのボン大学から招聘が来るも,文部省が認めず,三宅教授や藤井謙次郎教授の後押しで,ようやく34歳,科学分野最初の女子官費留学生となって渡米,ハーバード大学で研究して帰国,母校での研究不可能なため,中川謙次郎校長や藤井教授の尽力で,東大遺伝学講座の嘱託として研究,39歳には,母校の教授となり,47歳,続けてきた研究をまとめ,「植物の遺伝研究」ほか一編を発表,東京帝大から理学博士号を受け,日本の女性博士1号となる。翌年には,学術雑誌{キトロギア}を創刊して,編集に携わるとともに,湯浅年子らを教え育て,100編以上の論文を発表する間,敗戦後の学制改革で,69歳,お茶の水女子大学教授となり,72歳,定年退官,その後も,研究室通いを欠かさず,研究を続け,75歳,文化勲章に推薦されるも,前例がないと,紫綬褒章,82歳,脳出血に倒れて病床につき,82歳に没したが,ここでも,役所の融通性の無さに対して,ともに抵抗し支援してくれた三宅驥一教授はじめ,開明的な学者たちがいたことを心に留めたい。2人目の女性理学博士になった化学者黒田チカも,22歳に,東京女子師範学校理科を卒業,25歳,母校の助教授となり,28歳,講師に招聘された長井長義の実験助手を務めて感銘を受けた翌年,2年前に開学した東北帝大の初代総長澤柳政太郎が女子受入れを表明,長井に勧められて受験すると,丹下ムメとともに,難関突破,,帝国大学初の女子学生となり,32歳に卒業して,日本初の女性理学士,34歳には,母校に,日本初の女性教授に招かれ,日本化学会で講演して国民的話題になったのである。その後のことは,省略するが,ここでも,開明的な教育行政家で知られる澤柳政太郎の決断が大きかったといえる。東北帝大以外では,相変らず女性の大学進学ができず,辻村みちよは,理研研究生となり,緑茶の研究で,わが国女性の農学博士第1号となっているが,満州事変の頃には,門戸がやや拡大して東京文理大物理学科に進み,物理では日本初の女子学生になった湯浅年子は,女性差別の強さに辟易するとともに,教職には向かず研究に専念したいと,フランス給費留学生をめざして,新たにフランス語を始め,最初は落第するも,2回目はトップの成績で合格,第二次大戦下,キュリー夫人の指導で,フランスの物理学博士号を得,戦後も,フランスで研究活動をすることになったのである。文系では,女性初の民俗学者で,最初の「海女記」と最後の「女の民俗史」が高く評価された瀬川清子,女性による最初の日本経済史研究書「日本綿業発達史」を著した三瓶孝子がおり,学者に近い人物として,渡米留学して卒業後,偶然ボストン美術館東洋部に招かれ,美術品を整理・考証,61歳に,研究の集大成となる英文の論文「鳥居清長の生涯と其作品」を出版,日本語版を出版しようと,直後に帰国したが,急逝した平野千恵子,詩人として登場し,転変の後,俗事は夫に任せて自宅から一歩も出ずに研究,女性史学を確立した高群逸枝を挙げることもできよう。
もうひとつ,男性と対抗するレベルで,女性が多く登場した活動分野では,出版ジャーナリズムがあり,婿養子の夫とともに{三省堂}を創業,大ヒットで成長するも,百科辞典で倒産した亀井万喜子,婿養子の夫が死去,家業を継いだ長男も死去したため,女性のみの株式会社{田中一誠堂}で事業拡大した田中かく,{講談社}創立者野間清治の妻で,事業の半分を負担して"創業の母"と呼ばれ,子と夫急逝で自ら社長になった野間左衛ほか,戦前ではほとんど唯一の女性評論家として活躍,戦後も発表し続けた板垣直子,草創期の婦人紙誌で啓蒙活動,飛躍をめざして留学するも,早世した小橋三四子,男子と対等に闘おうと挑戦,自ら操縦して訪欧飛行すべく決行準備中に病没したジャーナリスト北村兼子,夫と死別して就職,農村婦人の苛酷な労働環境を知って評論活動,母親と教師の連帯にも尽力した丸岡秀子,戦前長期にアメリカで生活,戦後,追放されて帰国,女性問題を中心に評論活動し,多くの論争を巻き起こした石垣綾子,戦時下に{生活と趣味之会}を運営するなど,女性に生活経済情報を提供し続けた大田菊子,そして,戦後の{中央公論社}の企画をリードした永倉あい子らを挙げることができる。
その他の分野型では,第一にとり挙げたい能舞観世流シテ方初の女性師範津村紀美子は,日露戦争の少し前に明石で,商店の娘に生まれ,一家で上京,母が旧家の出身で,16上の長姉が謡曲。小鼓の師範,長兄がのちの劇作家京村,三姉がのちの日本画家青芽となるような環境に育ち,まず謡曲を習い始め,家業が傾くなか,13歳に,謡曲の文章に感動して,観世流シテ方に師事,同時に,各流の舞台を見て歩き,謡曲のマスターに努めるも,家業が行き詰まったため,19歳,観世華雪に師事し,自らも弟子をとって教え始め,さらに拡大しようと渡った朝鮮で初舞台,以後,次々演じたことが知られて破門となるが,才能を買う諸師について,ワキ方,鼓を習い続けるうち,22歳,京城に,主宰する{緑泉会}を発足させて定期演能,東京では,住まいと稽古場をつくり,多くの,能舞の諸役者や劇評家に支えられながら,実力を養い,戦時下の1939年,37歳に,東京で「安宅」を初演,装束をつけない袴能で評判となり,処遇に困った能楽界が復帰を認め,女性師範第1号となるが,自宅に下宿した縁戚の正美を寵愛し,彼が肺結核だったこともあって,多くの弟子が辞めていくなか,敗戦となり,上演が成功して復活するも,自らも肺結核となって病臥,正美らが{緑泉会}を支えた7年間の闘病生活の間,新曲を多数つくり,54歳に,「玄象」を演じて再起し,以後は,毎年のように演じ続けて,72歳,仕舞「山姥」を舞ったのを最後に,過労で病臥,心筋梗塞で没するという壮絶な生涯であった。そのほか,明治時代の洋画開拓期に活躍した日本の女流洋画家の先駆者神中糸子,戦前はタゴールの来日などに尽力,戦後は,日本人初のソ連入りなど,国際的に大活躍した平和運動家高良とみ,夫の道楽をヒントに{吉本興業}を創設,関西芸能界を支配するに至った吉本せい,日本初の満映・共栄圏唯一の女性映画監督ながら,戦後は助監督すらなれずに終わった坂根田鶴子,夫と戦前からの映画の洋画輸入や戦後の邦画国際化に貢献,国立フィルムセンター設立にも尽力した川喜多かしこ,洋裁教育を導入,女性初の兼任文部省督学官で,家政学界の重鎮となった成田順,戦前は弾圧や結核と戦い,戦後も,反戦歌など作曲したが,早世した日本初の女性作曲家,音楽評論家吉田隆子,服飾デザイナーから始まり,{桑沢デザイン研究所}を創立,東京造形大学へ発展させた桑沢洋子,幼くして人気得るも破綻し退場,実業界に入り,男として振舞って成功,復帰して伝説化した天才琵琶師鶴田錦史ら,最後に,どうしても挙げておきたい人物に,戦時下に,女性として初めて司法試験に合格して,わが国初の女性弁護士になり,家庭と両立させて,女性の地位向上に尽力し続けた久米愛がいる。
補足になるが,女性である故に悲劇になりながらも,歴史に名を刻んだ人物として,小説を発表して女子大中退に追い込まれ,結婚を家族に反対されて精神を病み,死の直前に脚光を浴びた尾崎翠,大正デモクラシー前後に一世を風靡したが,結婚後は寡作になり,戦時中に筆を折った小説家小寺菊子,懸賞小説で華々しく登場,優れた才能を発揮するも,女性である故に波乱万丈の生涯になった田村俊子,ライバル心が強すぎて{アララギ}脱会,{香蘭}でも衝突起こして破門となり,{短歌至上主義}を創刊した杉浦翠子,虚子のとなえる客観写生を超越,名声が全国に響くも,言動激しく除名絶縁され,孤独になった杉田久女,西条八十から絶賛されて次々創作するも,夫の反対で絶筆,離婚し自殺したが,近年再評価著しい童謡詩人金子みすゞ,天才的スプリンターで,日本女子選手初の五輪メダリストとなるも,冷たい世論に,夭折した人見絹枝,幸田露伴の妹で,姉の幸田延と,わが国バイオリン界の草分けとなるが,ともにバッシングに晒された安藤幸,フランスから帰国して華々しくデビューするが,音楽評論家に叩かれ続けて消され,伝説化したピアニスト原智惠子,17歳で一家を支え始め,悲惨な生活なか名作創るも耐えきれず,自ら命を絶った。"女啄木"歌人江口きちらを挙げておく。
2:身障・差別・闘病など
古代から中世では,ほとんど分からず,かの紫式部が,21歳頃に大流行した天然痘に罹り,死を免れたものの,アバタ面になってしまったことが,内面的にし,「源氏物語」を産み出す契機になったらしいことを指摘するに止める。
近世になると,中世から始まる特定の職能集団のうち,南北朝時代の盲人琵琶法師明石覚一の組織したものを源流とし,幕府が公認した男性盲人の自治組織当道座によって,音楽家たちが輩出するようになり,映画など座頭市で知られるようになった按摩,鍼灸,琵琶法師への呼びかけ語の座頭から始まって,勾当,さらに最高位の検校に位が高まる仕組みになっていた。その代表ともいえる,近世筝曲確立し,盲人音楽家専業化も実現した天才音楽家八橋検校は,大坂の陣の頃に,磐城平で生まれ,当道座に入って三味線を学ぶと,早くも10歳頃には,三味線八橋流の祖になり,平藩主の招きで江戸に出て筑紫筝も習得,将軍家光の鎖国政策が進む間,22歳に,上洛して勾当になり,25歳には,検校に登官,鎖国完成後,歌人でもあった藩主の支援を受けて,次々作曲するとともに,新たな調子を考案するなどして,筝曲八橋流を創始,家光が没する1651年,37歳頃までに,八橋十三組を創作,現行の筝曲の原点になる「六段」もさせ,57歳に,当道職屋敷の十老,66歳には,六老に昇進し,71歳で没している。このほかの盲人音楽家としては,独自の筝歌で,それまでの生田流系の地歌・箏曲を圧し,江戸中に普及させた山田流の祖山田検校,筝曲の名手で,三味線から筝曲を独立させ,名曲「千鳥の曲」を遺した吉沢検校(2代),平仮名木活字考案して記録するなど,研究と指導に生涯をかけた地歌筝曲家葛原勾当らがいる。
そして,才能を必要とする音楽でなく,盲人一般が広く仕事にすることができる鍼灸のうち,管鍼術で治療範囲を飛躍させ,鍼術で唯一人神社に祀られる杉山和一(検校)は,八橋検校誕生より少し前に,藤堂高虎家臣の子に生まれ,幼時に,伝染病で失明,医の道に進もうと,17歳頃,盲人鍼医に入門するも,武家出では対応できず,21歳頃には,破門され,芸能の神・盲人の守護神江の島弁財天で必死に祈願した帰り道,転んで手にした松葉の入った管から着想,以後,長い間修業し,ついに管鍼術を確立すると,家伝にせずに公開しようと,54歳,江戸に出て開塾,治療も始めると,名声が広まり,多くの医者が治せずにいた将軍家綱と治療に呼ばれ,70歳,家綱が死去すると,その恩に報いるべく,按摩術も取得して,翌々年,フランスのそれを100年先駆する世界初の視覚障害者教育施設を開設,教科書2点も著し,中国医学の概論と合わせて,現代まで伝承される「杉山流三部書」になるほか,盲人の芸能当道座の再編にも尽力,将軍綱吉の,今で言うノイローゼの治療にも取り組み,83歳には,治療の成果を感謝され,目が欲しいと,本所一つ目の地を拝領し,老身むち打ち江の島に行かないで済むよう,分社した弁財天社を建立して貰い,翌年,没しているが,福祉という点からも,偉大な先人であったといえよう。
さらに,幕末に登場した,盲目ながら,「群書類従」編纂刊行の大事業を成し遂げた塙保己一は,偉大な将軍だった吉宗が没する少し前に,武蔵国で,小野篁をルーツとする,帰農した武士の末裔に生れ,幼時に,病により失明,母も失ってしまったため,14歳,父に願って,江戸の雨富検校に入門,鍼や音曲を職とするのに悩むうち,隣の人に学才を認められ,検校からも,学問の道に進むことを認められ,諸師につくうち,23歳には,死直前の賀茂真淵に学び,太田南畝らの支援も受けるようになり,ついには,雨富検校から多額の奨学金を得,勾当に進み,塙保己一を名乗って独立,天明最盛期の33歳には,天満宮に祈願して,「群書類従」に着手,弟子も増え,その一人屋代弘賢のサポートで飛躍,37歳には,検校に進み,田沼意次の失脚した年,40歳には,見本版を刊行して宣伝も開始,水戸彰考館に召されて,「大日本史」の校訂にも与るほどになるも,46歳,江戸大火で居宅が全焼,板木も失うと,勧められて,翌年,幕府に願い出,和学講談所を開設,51歳には,開板130冊に達して,幕府が林家の塾を昌平坂学問所とするほどの影響を及ぼすととともに,幕府との関わりが盛んになり,62歳には,正式に「史料」編纂を命じられ,費用の支給も受けて,ついには,半官半民の事業となって,豪商鴻池の番頭はじめ,各所から支援金,73歳,刊行を完了,その続編の計画も立てるが,75歳,総検校になるも,病で辞職し,まもなく,没している。
こうしてみると,江戸時代とは,盲人の時代といえるほどで,成人してからの失明の苦難を克服して名著「詞の八衢」著すなど,父宣長の研究を大成し,国学史上に不朽の貢献をした本居春庭,諸藩主から庶民まで支持され,,40半ばに失明するも,かまわず,各地を巡講した心学の柴田鳩翁,少年期に聴力失うも刻苦して大成し,儒臣に抜擢後,さらに失明に至るもなお勉励した谷三山もそのなかに入れるとすれば,他の身障や差別の話はほとんどなく,すでに取り上げた,幼時の痘瘡の後遺症で,両手指が奇形になった上田秋成,転変の後,決意して道場主となり,弾圧のなか慕われた,被差別部落の尼僧(満願寺)智海くらいしか出て来ないのは不思議ですらある。
近代に入って,まず,失明,盲人から始めると,西洋音楽を取り入れた傑作を次々と発表,世界的になるも,列車から転落死したことでも知られる,著名な盲人箏曲家宮城道雄は,近世の八橋検校からの流れにあり,当道座は,明治4年,とうに廃されていたにもかかわらず,年譜には,明治の終りの1912年の18歳,検校になるとあるから,その世界では,形式的に伝承されていたことが分かるし,江戸時代に,盲目の女性のための組織としては瞽女座があったことがそのまま続いていたことを示す,幼時に失明して,ゴゼ唄の伝承者となり,90歳近くになってラジオとTV出演でブームを起こした伊平タケがいるほか,津軽三味線第一人者として幅広い支持を受けるとともに,ロックと融合して,若い層の心も掴んだ高橋竹山もほとんど同じ範疇にあり,全く新しいのは,戦前から活動し国外で名声,戦後の43歳,過労から,突然視力失うも,強靭な意志と驚異的暗譜力でカムバックし,"不死鳥のジャズトランペッター"と言われた南里文雄で,枠を少し広げて,視力障害を契機に,点字楽譜の祖となり,回復後は,家業の医師として名を成したが,早世した佐藤国蔵がいるほかは,盲目・脊髄損傷の二重苦のなか,京都を近代的な街に復興,新島襄の同志社創立に奔走した山本覚馬,無学全盲ながら,刻苦勉励し,政財界に多くの信者と支持者を得るまでになった禅僧山本玄峰に留まる。
聾唖には,尊皇倒幕を唱え,吉田松陰はじめ志士に思想的影響を及ぼし,維新後は大蔵経を46万首の和歌にした聾僧宇都宮黙霖,聾唖のアマチュア天才写真家として,晩年に,全国的・世界的反響を呼んだ井上孝治,肢体が不自由な重い身障者としては,事件で身障者となり,独力で口筆絵画をマスター,身障者福祉にも尽力,観音示現の評判になった大石順教(尼),生まれてまもなく,重い脱疽のなり,両手足切断された中村久子は,19歳,自ら見世物になることを選んで自立,37歳,4度目の結婚で安定した家庭を得るとともに,思想家伊藤証信との交流が始まり,太平洋戦争中,45歳には,興行に別れを告げ,以後,子育てしながら,全国を講演行脚,64歳,身障者代表として,昭和天皇に拝謁,翌年には,NHKラジオの{人生読本}で三日間放送するなどして,71歳に没しており,小学校の運動会で関節炎となり,両足切断で義足になった野呂栄太郎は,日本共産党に入って,思想面で指導するうち,信頼していた仲間に売られ,逮捕・拷問死の悲劇になったほか,先天性障害で独学,最年少記録で直木賞後,次々創作し,結婚で夫に支えられるも,早世した堤千代らがいる。近年,見直しの進んでいる知的障害としては,なんといっても,養護施設での"ちぎり絵"で一躍有名になり,以後,放浪生活を送りながら独自の世界を創出した山下清が挙げられ,かの紫式部と同じ,痘瘡後のあばたでは,結婚あきらめるも,桜田門外の変の作歌で出会い,夫婦呼応の生涯を送った国島勢以や,天真爛漫な性格と才能が相まって,かえって人々を魅了するようになり,福沢諭吉・大隈重信両者に愛され,三菱にも勤め,鐘紡の生みの親で三井のリーダーなって,希代の大物とされる朝吹英二らが挙げられ,もう一人,真に勇気ある自由人として,戦前,すでに思想界で屹立,慶応義塾の塾長になっていた小泉信三が,空襲で家を焼失しただけでなく,顔面と両手に火傷,重篤になって,病床で敗戦を向けるも回復したが,その傷の残った顔のまま,戦後,皇室の近代化にも努め,美智子妃のご成婚を実現したことも,加えておきたい。
結核やカリエスなど,活動が阻害されるような生涯病と闘って名を遺した人物の代表は,病臥する中,日本の近代俳句・短歌の方向を提示,決定的な影響をもたらして早世した正岡子規になろうが,カリエスと闘いながら,深田久弥と離婚後,戦後の児童文学を代表する作家になった北畠八穂,生涯車椅子生活で,「猫は知っていた」でデビュー,戦死者妹らの会{かがり火}ほか文化的活動もした仁木悦子のほか,かなりの数になるが省略し,そのなかで,特に差別と直結し,現在もなお,問題になっているハンセン病では,女性の文学活動・社会運動を支援,精神遍歴を重ね,宗教至上に達して早世した評論家生田長江,幼時にハンセン病に罹り,自ら病院に入って俳句を知ると,脚の切断,失明を越えて創作し続け,淡々と綴る自伝を遺した玉木愛子を,さらに,原爆を落とされた日本だからこそのものであり,自分には何の責任もないのに,差別にも悩まされる被曝者としては,長崎で女学校を設立,原爆投下による壊滅的状況から再生し,"被爆者の母"になった江角ヤス,戦前すでに著名で,原爆被災,原爆症の恐怖と闘いながら,密度高い記録文学作品を遺した小説家大田洋子,富裕な家に生まれ,屈折した若年期を送り,妻を失った直後に被爆,集中的に作品を遺して自殺した原民喜,もともとの白血病が,被爆して重症になるも,被爆者治療に献身,映画化され流行歌にもなった「長崎の鐘」ほか,記録著作多数を遺した永井隆,GHQ禁止を超えて原爆歌集「ざんげ」秘密出版,原水爆禁止を訴え続けるも,後遺症の癌で没した正田篠枝,被爆による病のなか,新聞投稿詩が大反響,以後,病状悪化と闘いながら被爆者代表としても活動した福田須磨子らを挙げておく。
最後に,未だに根深い部落差別では,第1講で挙げた解放運動を別にすれば,成績抜群で小学校教員になるも,部落出身のため様々な差別に遭い,島崎藤村「破戒」のモデルになった大江礒吉,熊野をベースに,強烈な野性を持つ新人として登場し,独自の世界を開くも,早世した中上健次らがおり,いわゆる民族差別では,沖縄県初の高等官となるも,県知事奈良原繁と闘って挫折,精神に異常を来した謝花昇,昭和天皇が皇太子時代渡欧の際の艦長となるほどの名将ながら,沖縄差別に抵抗して政治家に転身した漢那憲和,経済学部の卒論で歴史学界に旋風捲き起こし,地主論,琉球史から天皇制へと独自の論陣を張るも差別された安良城盛昭,アイヌ出身の語学の天才で,アイヌ文化研究者に必携の多くの著作を遺して,早世した知里真志保,相撲から転向,日本のプロレスを創設・発展させ,猪木・馬場を発掘直後,刺されて急逝した力道山,韓国で生まれ日本で生活,屈折した体験を背景に,詩情と通俗で人気を得たが,早世した立原正秋,国籍と祖国とに引き裂かれる帰化在日韓国人の矛盾を描いて文壇にデビューした李良枝らのほか,数多くいる。
3:島国日本ならではの,遭難・拿捕,あるいは,日本を脱して名を遺すことになった人物
古代では,'天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも'で知られる阿倍仲麻呂は,18歳の時,留学生として入唐,やがて,科挙の登第して唯一の日本人官僚となり,学識・文才が広く知られ,35歳,この年の遣唐使とともに帰国しようとするも許されず,54歳,入唐した遣唐使藤原清河,吉備真備らに従って帰国することを許され,翌年,鑑真一行らも含む船団で出航したが,乗船した大使藤原清河の船は安南に漂着し,2年後,長安に戻り,その後も,生涯を唐の朝廷に捧げ,72歳に没しており,藤原氏初の遣唐大使であった藤原清河も,長安に戻ると,玄宗に寵愛され,その後も帰国を認められず,秘書監として唐朝に仕え,仲麻呂の少し後に,客死した。三井寺長吏30年の後の58歳,自らの意志で入宋を企てた成尋は,61歳に実現,別離を悲んで,「成尋阿闍梨母集」を遺した母は翌年死去,成尋は,現地では尊崇され,70歳で没したと伝えられる。
中世にはみられないが,鉄砲伝来を画期とする近世に入るや,ポルトガル船と貿易を始めた薩摩商人弥次郎が,過失で殺人を犯したため,復讐を逃れ,ポルトガル船に乗って,マラッカに渡り,キリスト教を教えられ,ザビエルと運命的出会い,ゴアの学校に派遣されて,日本人最初のキリシタン・アンジローとなり,ザビエルの同伴者として鹿児島に到着,その来日を実現し,藩主島津貴久にも拝謁,翌年には,「カテキズモ」を翻訳出版するが,貴久が禁教に転じて,ザビエルを退去させた後,仏僧らの迫害を受け失踪,以後,不明になっている。そして,各地に現れるキリシタン武将の一人内藤如庵の妹で,夫と死別後,尼になっていたが,41歳に,受洗した内藤ジュリアは,熱心に伝道したため,僧らの怒りを買って家康に訴えられ,対馬に逃れ,関ヶ原の戦後,京都に戻って,日本初の女子修道会を設立するも,59歳,幕府のキリシタン追放令で,兄,高山右近らとともに,マニラに追放されると,近くの村の聖ミカエル会会長になり,務め続けて,72歳に没している。
そして,徳川幕府発足で,戦国時代が完全に終焉すると,駿府の商人の養子で,関ヶ原の戦の時に,10歳だった山田長政は,任侠的になり,17歳,家康が退隠してきたことで,貿易豪商らが集結し,急に華やかになった駿府を避けるように,沼津藩主の駕籠かきになるも,22歳,藩主が死去すると,駿府の豪商の船でシャムに渡り,30歳には,アユタヤ日本人町頭領となり,36歳には,国王側近になるも,2年後には,国王が死去,その後継をめぐる混乱のなか,40歳に毒殺され,松坂の朱印状豪商の子角屋七郎兵衛は,家康没後も特権が維持されていたことから,安南貿易に踏み出すも,翌年に,大御所秀忠が死去し,その翌年に,将軍家光の鎖国令が始まる23歳,現地に留まることを決意,27歳には,王族の娘と結婚,交趾日本人町頭となり,54歳,通信が許されると,以後,毎年のように,兄弟を通じて,貴重な物産を社寺へ寄進,日本との貿易も続けて,62歳に没している。ポルトガル船航海士と日本女性の間に生まれた混血女性キリシタンの通称ジャガタラお春は,14歳,鎖国令によるオランダ商館閉鎖直前に,多数の姻戚とともに,バタビアに追放され,21歳,東インド会社員と結婚,47歳に,夫が急死して,多額の遺産を継ぎ,裕福に暮らし,晩年には,次女と孫の3人きりになるが,奴隷たちに自由を与え,その将来までも手当する遺言書を作成し,72歳に没しており,お春誕生の少し後に,平戸のオランダ商館長と日本人妻との間に生まれた混血女性コルネリアは,生まれてまもなく父が死去して,バタビアに送られ,21歳,東インド会社員と結婚,オランダ人社会に溶け込み,夫死去後も,十分な遺産があったが,再婚した夫の間で壮絶な争いとなり,夫婦別の船で,オランダに行き,裁判での抵抗を続けるうち没した。
徳川幕府も半ばを過ぎた将軍吉宗時代には,少年期にロシアに漂着,現地で世界初となる露和辞典を編纂するも,夭折したゴンザが,幕末になると,遭難して,カムチャツカに漂着,ロシア女帝謁見など希有の体験して,帰還後,幕府により閉居になるも,鎖国下の国際認識に貢献した大黒屋光太夫,蝦夷地政策に食込んで豪商になり,ロシア船にだ捕され,交換釈放で帰還した高田屋嘉兵衛,遭難してロシアに漂着,皇帝に謁見するなど稀有な体験を大槻玄沢が記録し「環海異聞」になった津太夫,史上最も長時間漂流した人物として知られる(船頭)小栗重吉,遭難してアメリカに漂着,モリソン号で送還も叶わず,上海で,日本人漂流民の帰還に尽力した(にっぽん)音吉,ロシアに拿捕され,交換釈放途中,種痘法を知ってマスター,日本初の種痘実施,以後も度々行った中川五郎治ら,それまでは,遭難したかどうかも分からずに消えてしまったような人たちが,日本近海に,多くの外国船が出没するようになって,思わぬ経歴となり,歴史に名を遺すようになる。
その極め付けで,近代の幕を開く役割を担うことになる,中浜(ジョン)万次郎は,シーボルトが来日していた頃,現在の高知県土佐清水の漁師の子に生まれ,天保の改革の始まった1841年の14歳,出漁中に遭難,無人の鳥島に漂着したところを,アメリカの捕鯨船に助けられて渡米,船長の好意で,学校教育を受けた後,再び,捕鯨船で長期航海に出ると,21歳,人格と手腕が見込まれて,一等航海士副船長に選ばれ,帰米すると,ゴールドラッシュの町で働いて資金をつくり,サンフランシスコから,琉球を経て,長崎に着いたが,鎖国政策のため,入牢後,領外に出ないことを条件に,土佐に帰着すると,1853年の26歳,藩の武士に取り立てられ,藩校教授を命じられた直後に,ペリー来航で,幕府の御普請役格で登用され,外交文書の翻訳にあたる。桜田門外の変の起きた1860年の33歳,遣米使節の通訳として同行,船酔いで動けない勝海舟に代わって,咸臨丸の実質的船長を務め,アメリカでは,英語に堪能なことに感心され,37歳には,鹿児島の開成所教授に就任,以後,英語を広める開拓者的役割をするうち,明治維新となり,開成学校教授に任命され,普仏戦争視察団の一員として派遣された途中,アメリカで恩人船長と再会,翌年44歳に帰国後,軽い脳溢血を起こして引退,その後は静かに暮らしたと言われるが,漁師の血が消えることはなく,61歳に,小笠原方面に,最後の捕鯨航海に出たらしく,71歳に没している。また,大塩平八郎の乱の起きた年に,播磨国加古で生まれた,のちの通称アメリカ彦蔵(ジョセフ=ヒコ)は,13歳の時,江戸からの帰途海難に遭い,漂流50余日にアメリカ船に救助され,サンフランシスコに上陸,帰国のため香港に着くも,訪日予定のペリー艦隊に合流できず,アメリカに戻り,ペリー来航の1853年の16歳,ニューヨークに連れられ,ピアース大統領に謁見,翌年には,ボルチモアの学校に入学して受洗,20歳には,当地の新聞報道で,社交界の寵児となり,ブキャナン大統領にも謁見,翌年には,アメリカに帰化して日系アメリカ人第一号となり,日本近海に測量に向かう船に便乗して,アメリカ領事の通訳として来日,外交交渉などで活躍し,桜田門外の変翌年,再渡米,25歳,リンカーンに会った後,帰国定住すると,英字のビジネス紙を発行,続いて,英字新聞を翻訳した海外新聞を発刊,日本人による新聞発刊の先鞭となり,28歳には,リンカーン暗殺を速報,明治維新になると,大阪造幣局の設立を助け,大蔵省に入って,渋沢栄一のもと,国立銀行条例の編纂に従事するが,渋沢が退官したため,37歳には辞職,神戸で製茶の輸出貿易を始め,結婚定住し,56歳には,「開国之滴」を出版,58歳に,英文の自伝を著し,60歳に没した。
掛川藩士の増田甲斎は,ペリー来航翌年の34歳,プチャーチン率いるロシア使節団が来日すると,長年の夢,ロシア行きのチャンスと,脱藩して,ロシアに密出国,露日辞典「和魯通言比考」を完成させ,ロシア人となり,戊辰戦争で会津藩が敗れ,日本初の女性移民になったおけいは,現地で早世,後に知られることになり,仙台藩士として戊辰戦争で徹底抗戦した新井奥遂は,渡米し34年,キリスト者として帰国,独自の国づくりを訴え,天文学者めざしメキシコに渡った屋須弘平は,当地の政変,日本人として初めてグアテマラ移住,通訳や写真家として活躍した。
また,権力に立向かう代言人から同志社総長になるも,突然全てを捨て渡米,テキサスのライス・キングになった西原清東,夜逃げの末,マダガスカルに至り,寄港したバルチック艦隊を日本に通報,故郷の英雄になるも,現地で商売を続けた赤崎伝三郎,本格的の英語を学ぼうと,24歳に渡米するや,馬鈴薯栽培の有利性を発見,農園に住み込んで体験しながら貯蓄,27歳には,独立して耕筰開始,43歳,アメリカの生産を支配する"ポテト王"になるに至り,人格高潔を称えられ,日本移民排斥が始まると,10万人の在米日本人会会長になり,日米融和に務めた"無官の大使"牛島謹爾,少年期に日本を飛び出し,国際戦争で翻弄されながら,海外で活躍し続けたサーカス芸人沢田豊,渡欧し,迫真演技に感激したロダンのモデルになり,彫刻「死の首」「空想に耽る女」が制作された(マダム)太田花子ら,あるいは,滅亡した清国の王女を引き取って,満蒙独立運動を画策した川島浪速ほか,薄益三,佐藤大四郎,伊達順之助ら,大陸浪人と呼ばれる人たちに,(満州国最後の皇帝溥儀)ラストエンペラーの忠臣工藤忠,娼婦として上海に渡り,シンガポールでマッサージ店,ガンジーも客になった"からゆきさん"島木ヨシ,彼女たちを取材した南洋放浪の大衆作家安東盛,インドネシアとの民間交流に献身した貿易家石居太楼,ハリウッドでデビューした日本人初の国際的スターで,<敗戦>後も名演が話題になった早川雪洲や転変の後,ハリウッドの怪優となり,無声映画黄金期の一端を担うが,トーキー化で不遇になった上山草人,日本の社会主義運動の先駆者で,<ロシア革命>後はモスクワから世界の共産主義を指導した片山潜,世界無銭旅行に出発まもなく,チベット滞在,見込まれて現地人を妻に帰国も,妻は悲惨な結果になった矢島保次郎,そのチベット関係では,有名な河口慧海に,本願寺大谷光瑞と,彼の実動隊のようになって動いた多くの人物がいる。
さらに,日本の中国侵略の中,上海に{内山書店}創設,日中文化人の交流の拠点とし,敗戦後も日中友好に尽力した内山完造,権力に対抗し続け,多くの支持を得たが,アメリカ亡命を余儀なくされ,<敗戦>後に復帰した大山郁夫,特異なフランス体験を有し,あらゆる拘束を嫌う究極の自由人で,人生そのものが作品といえる存在椎名其二,植民地朝鮮の子らを教えるうち,逮捕され,曲折経ながらも,生涯,朝鮮人のために闘った上甲米太郎,日本人として最初にエジプト(ポートサイド)に定住,現地人と結婚し,手広く商売をした南部憲一,孫文と出会い,大陸で新聞の編集発行人とななって裏人脈を形成,関東軍の手先として"阿片王"に至った里見甫,中国解放運動に献身,満州問題論評などで,<敗戦>まで,特異な位置を占めたジャーナリスト橘樸,アメリカ奇術界で"グレート"の称号を得,<敗戦>後に天覧の栄誉を担い,日本で後進を指導した石田天海,性の遍歴の末,ソ連に逃亡,<敗戦>後も現地に留まり,演劇を学び直して演出家としても成功した岡田嘉子,辛亥革命後の中国で底辺の子らの自立を助け,<敗戦>で全て失うと,妻郁子と桜美林学園創立した清水安三,ベトナムで事業営み,クォン・デの独立運動を支援,その死後独立した南ベトナムと日本を仲介した松下光廣,ソ連も追われ,亡命したメキシコで巨大な足跡"演劇の栄光の時代"を築き,帰国せずに没した佐野碩(セキ=サノ),アメリカでの禅の布教のパイオニアとして生涯をささげ,清貧を貫いて客死した千崎如幻,中南米を舞台に事業を展開するうち,日本人初のアンデス考古学者となり,現地に博物館を創設した天野芳太郎,革新右翼と呼ばれる思想的転換を満蒙に持ち込むも挫折したが,多くの人に慕われた笠木良明,アメリカで日本学の契機拓き,ドナルド=キーンら多くの研究者を輩出して"日本学の父"になった角田柳作,マレーで盗賊"ハリマオ(虎)"と怖れられ,日本軍特務機関の一員となった直後に病没,英雄になった谷豊(ハリマオ),オーストラリア木曜島で真珠貝ダイバーとなり,戦後は日豪友好に尽力した藤井富太郎(トミー=フジイ),韓国木甫で三千人もの孤児を育ててオモニと慕われ,日韓両国の懸け橋となった田内千鶴子,杉山茂丸の孫,夢野久作の子で,特攻隊隊長で部下大量死胸に,インドのグリーンファーザーになった杉山龍丸と,それぞれ,想像を超える,めくるめくような人物が並ぶ。
第3話:最後に,活動パターンが特殊,あるいは,参考にしにくいため,取り上げないできた人物
活動パターンでは無い切り口で取り上げた人物は,若干,入ってくるが・・・1:尖頭型
総数は866人と,全体の4分の1近くおり,歴史に残るような出来事に関わったことでのみ,名の残る人物がいかに多いかを示す。0:皇室分野,統治に関わる1-1:政治分野,1-2:軍事分野,1-3:官僚分野が,あわせて388人と,45%を占めているが,源平の戦いや維新の志士など,集中的に輩出しているものもあり,ここでは,取り上げない。このほか,4:反社会型はもちろん,X:特異分野,4-3:競技分野など,この型が当然に多いようなもの,また,2-2:宗教分野,5:在外活動型,6;準日本人型なども避けた一般的な分野型から,ピックアップしてみると,以下のように,短期間に,際立った業績等を挙げている,誰もが名を知っている,天才的な人物が並ぶことになる。
古代では,奔放な恋に生きるも,一流歌人として評価され,「和泉式部日記」を遺した和泉式部,「枕草子」の著者として,日本の随筆文化の祖になった清少納言,そして,世界の長編小説を先駆ける傑作「源氏物語」を書き,自己を内省した「紫式部日記」を遺した紫式部ら,いわゆる,王朝女流作家,中世では,初代の観世大夫で能楽シテ方観世流の始祖,子の世阿弥が"能楽"確立して,名が遺った観阿弥,近世に入ると,信長に呼応して画風革新,秀吉の大建築に次々と大作,安土桃山様式を完成し,狩野派の礎を確立した狩野永徳,関ヶ原の戦前後を飾った女性芸能者で,歌舞伎のもとになる"かぶき踊り"を創始し,忽然と消えた出雲阿国,江戸幕府創設期に安南貿易を営み巨富の一方,河川開発で大きな貢献をした角倉了以,その同族で,日本初の数学書「塵劫記」著し,江戸期通じてベストセラー,和算が盛んになる契機をつくった吉田光由,その和算で,初めて筆算採用,西洋数学の先駆的内容含む高度なものに革新し,"算聖"と崇められる関孝和,日本における陽明学派の始祖とされ,近畿に勢力を持った中江藤樹,そして,古典的な物語を脱して,初めて庶民の生活を題材に創作し,近代小説を準備した井原西鶴,仕方噺を得意として本職となり,"江戸落語の祖"となるも,筆禍で遠島,赦免即憤死した鹿野武左衛門,遺産を放蕩で使い果たし,弟乾山の陶器の絵付けなどしながら,"光琳模様"といわれる画風を確立した尾形光琳ら元禄文化のスターたち,文化人類学要素をもった革命的思想「出定後語」「翁の文」を提示して,早世した富永仲基,人体解剖への抵抗が強い中,日本初の医学的解剖を行い,「蔵志」刊行して,実証的医学の契機になった山脇東洋の後,多色刷木版画錦絵を誕生させて浮世絵の飛躍的発展を導びくも,早世した鈴木春信に,明るく闊達な独自の様式を確立,美人画最高峰とされるものの,寛政の改革で,芝居絵に退避した鳥居清長,まったく新しい"美人大首絵"で一世を風靡,寛政の改革で創造力を失い,筆禍で憤死した喜多川歌麿といった浮世絵の天才,その歌麿はじめ,諸作家を売り出し,反骨精神をもって江戸を代表する出版業者となったが,寛政の改革によって失意の最期になった蔦屋重三郎と並べると,江戸時代における「改革」というのは,庶民にとっては,「改悪」としか言えず,その後は,応挙門下で,師の画風からは全く逸脱するも,機知あふれる傑作描いて花形的存在となった長沢蘆雪,樺太で発見した"間宮海峡"を世界に紹介したシーボルトを告発後,幕府の隠密となった間宮林蔵,農協の先駆となる世界初の産業組合で農村振興したが,革命恐れる幕政の犠牲になった大原幽学ら,近代につながる人物になる。
近代に入ると,幕末の長崎で製茶海外輸出を開拓して巨富を得,維新の志士らも支援したが,横浜開港で凋落した大浦慶,幕末に苦労して写真術を修得,職業写真家の開祖になったが,維新後は色々挑戦の末信仰の道に入った下岡蓮杖,維新直後に政府と手を結んで海運業を独占,巨利を得て,のちの三菱財閥の祖になった岩崎弥太郎,近代政商を先駆し,関西財界を指導,"東の渋沢・西の五代""大阪発展の恩人"と言われる五代友厚,幕末に油絵実技を独力で開発,維新で場所を得,近代日本の洋画の端緒を開いた高橋由一,アメリカでキリスト教信者となって維新後に帰国,{同志社}と日本組合教会の基礎を確立した新島襄,短い人生の中を思想遍歴,大胆な恋愛観が衝撃を与え,根本的な文学論争後,自殺した北村透谷,洋画を日本人のものとして確立,留学後,京都で,洋画家や工芸家を指導し,早世した浅井忠,新聞小説で一世を風靡,{硯友社}率いて後進の育成にも努めたが,「金色夜叉」連載終了まもなく早世した尾崎紅葉,維新後の変革期を象徴する破天荒な人生を送り,日本の近代劇運動に先駆的役割を果たした川上音二郎,読売新聞で紅葉と人気を二分,「五重塔」で文名を確立したが,以後は史伝,考証的なものに終始した幸田露伴,病臥する中,日本の近代俳句・短歌の方向を提示,決定的な影響をもたらして早世した正岡子規,熱心なクリスチャンで,"そろばんを抱いた宗教家"といわれる,ライオン株式会社の創業者小林富次郎,"花王石鹸"の製造・販売をスタートに,宣伝工夫で発展,油脂石鹸業界に君臨するも早世した長瀬富郎,鋭い名文句で人気を得るも早世,天才的エッセイストと惜しまれた高山樗牛,家計を支えるため職業作家を志し,わずか1年余に名作を次々発表して,肺結核で没した樋口一葉,浪漫主義文学の拠点となった{明星}創刊・主宰,晶子を世に出すも,自らは不振に陥り学者に転身した与謝野鉄幹,西欧文芸の紹介につとめ,名訳詩集「海潮音」で詩歌壇に決定的な影響を与えたが,早世した上田敏,日本初の百貨店{三越}を創業して経営改革を進め,人々の消費行動を根本的に変革した日比翁助,自称"先天的自由民権家"で,孫文と相識り,困難を乗り越え,中国革命運動を支援した宮崎滔天,相場師で財をなし,様々な仕事に熱中しながらも余裕失わず,近代日本の電気産業の基礎を築いた福沢桃介,日本映画独自のジャンルを確立し,映画製作所も設立した"日本映画の父"(マキノ)牧野省三,明治ロマン主義絵画の絶頂「海の幸」を描いた後,悲劇的な生活に陥って夭折した青木繁,尖鋭な社会批判をしつつ,代償行為の短歌で新風を呼び,貧窮の底で夭折した石川啄木,ロダンに影響されて彫刻家に転向,生命感あふれた衝撃的な造形で,将来を嘱望されたが夭折した荻原守衛,"美人画"で一躍有名になり,写真・印刷を初めて活用して商業デザインを先駆するも,挫折した竹久夢二,劇的な精神の遍歴の後の短い期間に,闘病しながら,次々と大傑作を発表して,早世した夏目漱石,論壇指導し,{中央公論}を権威ある総合誌に育て上げたが,病気で早世した滝田樗陰,短編に独自の世界を開き,若くして文壇の寵児となるも,'ぼんやりした不安'の一言を遺して自殺した芥川龍之介,現代(風刺)漫画創始して,大正デモクラシー期を画す一方,かの子の夫として特異な生き方をした岡本一平,虚子のとなえる客観写生を超越,名声が全国に響くも,言動激しく除名絶縁され,孤独に終わった杉田久女,西条八十から絶賛されて次々創作するも,夫の反対で絶筆,離婚し自殺した金子みすゞ,農業や教育に指導力を発揮,多くの作品を書き溜め,没後に多大な影響を及ぼした宮沢賢治,小林秀雄との屈折した関係の中,ようやく声価を得て集中的詩作も,長男失い,心身疲労で夭折した中原中也,戦時下に不世出のコメディアンとして大人気,敗戦後は,不幸に見舞われ自殺未遂度々だった榎本健一(エノケン),波乱の生立ち「放浪記」で一躍文壇の寵児,戦時下に大活躍,敗戦後に「浮雲」を発表して早世した林芙美子,建築設計で才能を発揮,大学卒業記念に詩集を刊行,第一回{中原中也賞}を受賞決定直後に夭折した立原道造,「"いき"の構造」によって日本の哲学に新生面を開き,"実存"などの語を定着させるも,早世した九鬼周造,屈折した意識から心中・自殺未遂を繰り返し,敗戦直後に,流行作家となるも,結局人妻と入水した太宰治,"天才少女歌手"として登場,戦後の大衆文化を代表するも,多くの不幸にも見舞われ,早世した美空ひばりに,少女期にジャズ歌手のトップスター,ドラマ「サザエさん」などで愛されたが,不幸のうち早世した江利チエミ,兄慎太郎の小説の映画化「太陽の季節」でデビュー,「狂った果実」など"太陽族"として一世を風靡した石原裕次郎,40過ぎに通産省から転身,椅子はじめ多くの傑作を生み出し,先導するも自殺したインテリアデザイナー剣持勇に,テレビCM制作のジャンルを開拓,次々受賞して天才といわれるも,絶頂のなか自殺した杉山登志,現代の人間模様の描写の名人だったが,直木賞受賞直後に,飛行機事故で没した向田邦子,一世を風靡して夭折,伝説化したシンガーソングライター尾崎豊らである。
2:初山型,終山型,初山終山型
初山型123人,終山型75人,初山終山型78人,あわせて276人で,全体の7.6%と少ないが,例によって,宗教分野,軍事分野などを除く,一般的なもので,81歳より長生きだった人物を拾ってみる。
初山型は,実際の解剖と照合して「解体新書」を翻訳,蘭学の祖となり,その後は政局を批判し続けた杉田玄白,日本木彫の伝統に洋風の写実表現を加えて重鎮となり,多くの弟子を育成した高村光雲,担当者として帝国憲法と基本諸法をまとめ,悪化していく対米工作の先頭にたち,「明治天皇紀」まとめて没した金子堅太郎,日本点字の父石川倉次,ドイツ留学中,純正調オルガンを発明して,皇帝から絶賛され,帰国後も邦楽研究ほかの業績を遺した田中正平,日本沖でのトルコ軍艦遭難に,義援金を募集して届け,以後,両国間の交流に尽力した山田寅次郎,北里柴三郎のもとで赤痢菌を発見,若くして世界に名を知られ,その名誉のうちに生涯を送った志賀潔,兄妹画家で評判になり,以後,絵一筋,百歳まで現役で没した,女流洋画家の草分け的存在の吉田ふじを,新興財閥日産コンツェルンを創設し,満州経営に深く関わった鮎川義介,自由律俳句のリーダーとなって尾崎放哉・種田山頭火らを育て,のち評論・随筆家として活動した荻原井泉水,{青踏}発刊,女権宣言して端緒を開き,戦後,日本婦人団体連合会初代会長になった平塚らいてう,大正デモクラシーを象徴する"初恋の味"コピーなど,卓越したアイディアマンだった{カルピス}創業者三島海雲,石原式色盲検査表を開発,色盲研究に多大の貢献をした石原忍,高田舞踊研究所創設し,夫没後も俊秀育成,モダンダンス界に大きな足跡を残した高田せい子,浅草デビューもすぐに引退して渡米留学,日本人として初めて,ミラノのスカラ座の専属になった原信子,{ホトトギス}の黄金時代を築いたが,離脱し,主宰する{馬酔木}により俳句の発展に尽力した水原秋桜子,"オギノ式避妊法"を開発して世界に貢献し,子宮癌にも独自の手術法を考案した荻野久作,弁証法的三段階法で一世を風靡し,原子力研究三原則(自由・民主・公開)を提唱した武谷三男,戦前に現代劇トップスターになったが,戦後窮乏し,化け猫役で話題も,映画界を去った入江たか子,新興俳句運動の先導的役割を果たし,昭和俳句の歩みの基盤と方向を決定づけた山口誓子,政治イデオロギー剥き出しの「日本資本主義分析」刊行して大反響も,検挙され転向した山田盛太郎,広島の原爆で親族を失い,以来,妻俊と共同で「原爆の図」を描き続け,象徴的存在となった丸木位里,敗戦後の"頭脳流出第一号"で,日本人初のフィールズ賞(数学界のノーベル賞)を受賞した小平邦彦らである。
終山型は,若くして"和歌四天王",晩年には「新拾遺集」を完成させて二条派の重鎮になった頓阿,応仁の乱期も京都に留まり,生活には窮しながらも,公武合体の象徴として尊敬され続けた三条西実隆,隧道を両側から掘って繋げるなど多くの難工事を超えて,五郎兵衛用水開削を完成させた市川五郎兵衛,僧侶として最高位まで達し,仏教普及のため近世話芸を確立,「醒睡笑」で落語の創始者になった安楽庵策伝,北極挑戦を企図,長い間訓練等を積むも,先を越されて,南極に変更,日本人初の南極大陸上陸,帰国して大歓迎されるも,以後は,費用の返済に追われ,不遇のまま没した白瀬矗,大審院の裁判長として,翼賛選挙に唯一の無効判決を下し,追放されるも敗戦で,名誉挽回した吉田久,90歳近くになってラジオとTV出演で”伊平タケブーム”になったゴゼ唄の伝承者伊平タケ,アメリカで排日運動下,在留邦人世話しながら勉学,太平洋戦争では海軍病院船看護婦長になった牧田きせ,全財産を投げ打って,91年の生涯を桜の保護・育成・研究に捧げ,"桜男""桜博士"になった笹部新太郎,100歳に近い生涯,男性遍歴を重ねながら小説を創作し続けるとともに,和服デザイナとしても活躍した宇野千代,弾圧で帝大追われ,大陸に転出するも,90を超えなお世人驚かす業績を挙げた法制史学者滝川政次郎,キリスト教的社会主義者で,敗戦直後に社会党委員長として新憲法下初の首相になるも,短命に終った片山哲,現代日本人の起源に新しい学説を提唱して反響を呼び,日本初の人類学科を創設した長谷部言人,第一人者として幅広い支持を受け,ロックと融合して,若い層の心も掴んだ津軽三味線奏者高橋竹山らであり,81歳より前に没しているが,どうしても入れておきたい,庵に住んで農民や子どもと交流,最晩年に貞信尼と出会って,大らかな書歌を遺した(大愚)良寛と,どうしても知っておいてほしい,民俗資料としても貴重な「北越雪譜」出版に生涯をかけた鈴木牧之を加えておく。
初山終山型は,大部分は乗越え方の,前山後山型の,際立つ例のところで取り上げているので,それらの人物は除き,500余人の歴史人物を描いた「前賢故実」を出版し,近代歴史画隆盛に先鞭をつけた菊池容斎,若くして「伊勢物語」の語句,古今・後撰・拾遺の詠風を分類編纂,最晩年に藩主の命で「歌集」をまとめた岩上登波子,日本人の解剖学者の草分けになった人類学者小金井良精,ジャーナリストから政治家に転身,もっばら黒幕的活動,<敗戦>後も入閣断り,"吉田茂の師範役"になった古島一雄,大正デモクラシーを代表する文人学者となり,多くの後進の指導に尽くした歌人窪田空穂,最初の「海女記」と最後の「女の民俗史」が高く評価された女性初の民俗学者瀬川清子,"耐震構造の父"と評され,東京タワーを代表に"塔博士"とも呼ばれる内藤多仲,共産党活動で検挙され,夫渡辺政之輔は自殺,出獄後,保健婦資格取り労働者医療活動した丹野セツ,"山川イズム"批判し,"福本イズム"といわれた日本共産党の理論的指導者福本和夫,わが国における洋楽の先駆者になった雅楽家山井基清,敗戦直後に未曾有の形而上学的思想小説「死霊」を書き始め,長い中断後,大作にして没した埴谷雄高らがいる。
3:その他型
225人おり,いわゆる陰の女性型が多いが,内容は千差万別なので,72歳より高齢で没した人物にまで,範囲を広げてみると,古代では,藤原道長の妻になり,一家に三后の栄をもたらして,三帝の祖母となり,人臣妻初の准三后になった源倫子,王朝女流文化のパトロネージュとなり,摂関家栄華の極から衰退まで,長い人生を送った上東門院(彰子),父関白頼通の期待担うも皇子ができなかったが,后位を保ち敬意を払われ続け,超高齢で没した藤原寛子,中世では,後鳥羽天皇に入内し順徳天皇出産,承久の乱後,長寿保って縁者失い,孤独のうちに没した修明門院(重子),親鸞の子ながら,父の命で関東で布教するうち,逸脱した行動をとって事件起こし,教団から放逐された善鸞,ユニークな生涯で"風狂"と"頓智小僧"のイメージが定着してしまった東山文化の芸術家らの指導者一休宗純,近世に入ると,豊臣秀吉の正室で,実子を得ずも,秀吉の正式な代理人として扱われ,公武から慕われた北政所おね,徳川家康との関係が伝説化した富士講の開祖長谷川武邦,徳川家康の側室で,才智にたけて,大奥を統制し,政治的にも家康・秀忠をサポートした阿茶局,大村純忠の娘で,松浦鎮信の子と結婚,幕命に殉教覚悟で棄教拒否貫き,隠棲となり,長寿保った大村メンシヤ,没落武家の子三井高俊に嫁ぎ,商家として確立すべく家業差し,息子らを訓育,高利が三井の祖になった三井殊法,罪を犯して流された53年間の八丈島流人生活中に,膨大な「八丈実記」を著し,"八丈島の百科事典"になった近藤富蔵らがいる。
近代では,幼時に日本初の種痘を受け,旧佐賀藩主と結婚後は,鹿鳴館の舞踏会で評判,日赤奉仕で長期に活動した鍋島栄子,日本で脱獄を最も多く行った事で知られ,"五寸釘寅吉"の異名を取る西川寅吉,政界引退後,早稲田大学の発展充実に努め,わが国図書館の近代化にも貢献,三つの人生を送った市島謙吉,3つの学校の初代校長になり,シュタイナーの人智学を日本に紹介し,予言ブームの一端を担った占星術師隈本有尚,苦心の末,独創的な芸で喜多流を再興,震災や戦災で3回蘇生,多くの逸材を育てた能楽師喜多六平太能心,三木露風の母で,童謡「赤とんぼ」のモデルとなり,映画製作技術者碧川道夫の母でもある婦人運動家碧川かた,日露戦争以降,時流に合わせて次々と主張,直接購読雑誌は戦後まで愛読者がいたジャーナリスト茅原華山,芸妓からアメリカの大財閥モルガンの妻となり,夫の死後,遺産で新たな恋人の言語学者を支援したモルガンお雪,ラジオ放送の威力発揮逆手に玉音放送で敗戦時の混乱回避。"簡易保険の父"ほか,3つの人生を送った下村宏(海南),「世間知らず」で文壇に新風,生活と社会改造の{新しき村}建設,独特の野菜絵が長く人気の武者小路実篤,森戸事件で教職を追われ,25年雌伏,敗戦となるや,その分を取り返すに余りある活動をした森戸辰男,妾腹ながら叔母が大正天皇の母という家柄に生まれ,その拘束から脱した情熱的人生を歌に詠んだ柳原白蓮,マレーで"虎狩の殿様",尾張徳川家の家宝管理,シンガポールの博物施設保全など,多方面に活躍した徳川義親,夫の死後,奔放な生き方,戦前はムッソリーニと握手,戦後はベトナム救援運動の先頭に立った詩人深尾須磨子,郭沫若の日本留学中に結婚も日中戦争で別離,郭の再婚で母子家庭も,郭没後に栄誉を得た佐藤オトミ,不倫で猟奇殺人事件起すも模範囚として恩赦出所,敗戦直後のブーム経て厚生,優良従業員表彰に至った阿部定,共産党員となり,諌める母が自殺,入獄中反省し,反共主義者に転向,政界黒幕として特異な存在になった田中清玄,敗戦を信ぜず密林に隠れて25年,高度成長期に発見され,以後違和感を抱きながらの晩年を送った横井庄一らである。
この論TOPへ
ページTOPへ